にはしばしば実隆の意見を徴せられた。かくして御手許に召置かれることになったものの中には、成化|戊戌《つちのえいぬ》の年の述作にかかる『和唐詩』四冊、功徳院所蔵の『日本紀』の珍本および『園太暦』等がある。中にも『園太暦』のごときは、中院入道内府がかつて百二十三巻十四帙を千疋で買得して所持し来ったところ、同入道の歿後中院窮困したので、やむを得ず内幾冊かを沽却《こきゃく》しようとした。それを実隆が聞き込んで散佚《さんいつ》を惜しみ、禁裏に奏上して、八百疋で全部御買上げを願うことにした。史料の散佚を拒ぐことに尽力した実隆の功績は、後世史家の永く感謝すべきところであろう。
実隆はかくして朝廷で調法がられたのみならず、武家からも重ぜられ、風流の嗜み深かった義尚将軍のごときは、文明十五年七月からして、隔日に室町殿へ出頭してくれるようにと頼んだ。禁裏の御用もたくさんあるので、実隆にとってはすこぶる難有《ありがた》迷惑に感じたのであるけれど、何にせよ武命で違背し難く、これを承諾した。その用向というのはほかでもない。源氏の打聞きであった。されば義尚の方でも実隆をば等閑《なおざり》ならずもてなし、禁裏当番かつは御連歌の御催しがあるので実隆にとりては是非祗候すべきはずの日にも、武家の招待のためにやむを得ず御断りを申し上げたこともある。京都での待遇の渥《あつ》かったのみならず、文明十九年の十一月に義尚はわざわざ江洲鉤りの里の陣からして吉見六郎を使として京都なる実隆のもとへやり、その詠んだ歌に雁一双を添えて贈り物にしたこともある。同年の十二月に答礼かたがた実隆が鉤りの里に伺候した時には、特別に引見した。しかし実隆がかく公武の間にひっぱり凧になって、用いられたので、おのずから朝廷と幕府との間に立ち、円滑に事を運ぶに与《あずか》って功を立てたこともある。たとえば延徳二年朝鮮の商人が来着して進物を献じた時に、朝廷のみで御受納なく、武家にも渡されるようにと進言し、また永正五年には実隆たびたびの口入れが功を奏し、武家からして御服用脚五千疋を献上し、その功によって禁裏から青※[#「虫+夫」、第4水準2−87−36]《せいふ》三百疋を賜わったこともある。義尚の時代のみならず、義植、義澄の代にわたって、実隆が幕府の眷顧《けんこ》を得たのも主として文筆の功徳であって、文亀三年に実隆新作の能「狭衣」の曲が室町殿
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