強くない論であるので、全然彼を模倣してはおらぬと言うだけでは、輸入分子を主としておらぬという証明にはならぬ。もし当時の日本の指導者が、行き届いた細心をもって取捨を行ない、己を主として然る後に彼に採るところがあったとすれば、換言すれば彼らのやり方が進歩的保守主義であったとすれば、藤原時代の文明というものは、決して然るがごとく早く行き詰まるはずのないものである。予の見るところではどうしても彼を本にしてこれに若干の修正を加えたと考えるほかはない。
 すでに彼を主にしたといえば、次に起こってくる問題は、そのこれを輸入した当時の彼国の文明の如何なるものであったかというまでに及ぶのであるが、隋唐の文明はこれを輸入した当時のわが国のナイーヴなのに比べて、宵壌《しょうじょう》の差ある優秀のものであった。隋はともかくとしても、唐にいたっては、その文明が支那においてすら行き詰まるほど発達してしまった時である。かくのごとき高度に達した一種の文明は、これをいっそう進歩した国に移植したとて格別の累をばなさず、かえって進歩を助けるのであるけれども、これをはるかに彼に劣った当時の日本に移植したのであるからして、日本でもいくばくもなく行き詰まるべき運命を持っていたのだ。日本は幸いにして、これを齟嚼《そしゃく》するのに反芻《はんすう》作用をもってしたので、はなはだしい害をば受けずにすんだのであるけれども、もしそれがなかったならば、日本も朝鮮のようになったにきまっている。だいたいにおいては一旦行き詰まりかけたに相違ないのである。しかしてこの行き詰まりを切り開いたのはすなわち鎌倉幕府の建設である。いわゆる窮してまさに通ぜんとしたものだ。それが十分に通じかね転じかねたのは、輸入された方があまりに優勢であったからであって、たとえてみれば一河まさに氾濫せんとし、幸いに支流の注入によってしばらく流路を転ぜんとする勢いを示すも、原流のあまりに水勢強きがために、ついに大いに流路を転ずることあたわずして終るがごときものである。要するに幕府が鎌倉からして京都に移されるとともに、せっかく鎌倉に出来かけた新しい文明の気運はここに萎靡《いび》し果てて京都のみがまた旧のごとく文明の唯一中心となるに至った。しからばその京都はどんな有様であったか。
 奈良朝以前から輸入されきたった文明は、平安奠都によって京都において涵養《かんよう
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