だと評するかも知れぬが、予はひたすらに帰納をくりかえすことをもって史家の任務の第一義だとは考えておらぬのであるから、かかる批評はあまり苦にならぬ。手品だと評せられるならば、それでも甘受しよう。ただ恐るるところは拙い手品の不成功に終りそうであることのみである。先ず第一段から始めよう。因《ちなみ》に述べておくが予はかつて『芸文』第三年第十一号に、「足利時代を論ず」と題する一篇を掲げたことがある。東山時代は足利時代の中軸であるからして、本篇とそれと、大体の帰趣において重複を免れない。しかしながらかつて論じたのは東山時代を主として睨《にら》んだ足利時代の総論で、本篇は足利時代を東山時代に総括しての論である。したがって両者の間に多少の差異の生ずることは、一に読者の諒察を願いたい。

 鎌倉幕府の開設は、たんに政柄の把握者を替えたのみではない。政庁の所在地を移したのみでもない。これと同時に日本の文明が従来の径路と違った方向をとりかけたという点において、歴史上重大な意義を有するのだ。行き詰った藤原時代の文明はかくして新生面を開こうというのであったのだが、しかるにその文明の方向転換は鎌倉幕府の衰滅とともに失敗におわり、将軍の幕府は京都へ戻り、世間の有様は再び藤原時代の昔に似かよった経路を辿ることとなった。復古といわば、復古ともいわれよう。さて何故に鎌倉時代の初期にあらわれた彼の新気運が、そもそも頓挫してこの始末になったかということについては、けだし種々の原因もあろうが、主因としては、従来の文明の根柢がすこぶる堅く、これを動かして方向を転ぜしめることの容易でなかった点にある。従来藤原時代の文明に関しては種々な説が史家の間に闘わされてあったので、当時の文明は決して輸入分子を主としたのではない、付焼刃の文明ではない、日本を本位にしたその基礎の上に支那文明の長所のみを採り加えたのだと主張する論者もある。この論はわれわれの祖先の名誉を発揮する所以のものであるからして、それがもしはたして真を得ている論であるならば、これに優る結構なことはないのである。しかしながら退いて考えると多少ショウヴィニズムの臭がある。この種の論者の論拠とするところは、大宝の律令をもって唐の律令に対照し、その全部が彼の模倣でなく、所々にわが国情に適するごとき修正を加えているという点を力説するにあるのであるが、これははなはだ
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