良の教育を受けたという将軍義尚が、健気《けなげ》な若殿であったけれど、やはりこの大勢には気がつかなかったのにも不思議はない。近江の守護佐々木六角高頼が、本所領家に納むべき年貢を横領するのはけしからぬというので、義尚は公家や社寺の利益保護のため、文明十九年に近江征伐を思い立った。その戦争はずいぶんナマぬるいものであって、あたかも欧洲中世の八百長戦のようであったけれど、師の名義に至りては堂々たるもので、つまり理想のための戦争であった。ただし大勢に逆らった目的を達しようとする戦争であるから、その成功を見なかったのも怪しむに足らぬけれど、二十歳を越えたのみの将軍が、公卿と武人とを取りまぜた軍勢を引率して、綺羅《きら》びやかに出陣した有様を日記で読むと、昔ホーヘンスタウフェン末路の皇族らが、イタリア恢復のために孤軍をもって見込なき戦闘をやったのと相対比して、無限の興味をひき起こさしめる。他日機会を得たならば、余はこの近江征伐を論じてみたいと思う。
義尚将軍の鉤《まが》りの里の陣は、応仁の一乱によって促進された大勢に、さらに動かすべからざる決定を与えたものだ。荘園制度の持ち切れないものなること、頽勢の挽回し難きものなることは、この征伐の不成功によっていよいよ明白になった。秀吉の時にて荘園が全然日本に地を掃うようになったが、その実この掃除は足利時代の後半において引き続き行なわれたので、その荘園取り払いの歴史中で、近江征伐のごときは正《まさ》に一つの大段落を劃するものだ。約言すれば応仁の乱があり、それからして近江征伐が文明年間の末に失敗におわると、その後はいよいよいわゆる天下の大乱となり、京都はその主なる舞台として物騒を加えるのである。京都市中の警察には細川、赤松らの大名その任に当っているわけであるけれど、直接その衝に立つものは、安富とか浦上などの被官人で、所司代の名をもって職権を行使しておった。しかし決して熱心な警察官とはいい難く、騒擾はなはだしきに及びてようやく手を下すのであるから、それらの力によって京都の粛清が十分にいたされ得たのではない。しばしば蜂起する土一揆は、あるいは東寺、あるいは北野または祇園を巣窟として、夜間はもちろん白昼も跳梁し、鐘をならし喊声を揚げ、富豪を劫掠する。最も多く厄に遭うものは土倉すなわち質屋ならびに酒屋であった。襲撃のおそれある家では、危険を避け、
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