くなった場合もあろう。地頭の名義人が女でも小児でも、さては僧侶でも差支えないということになったのであるから見れば、あまり確実に職務が行なわれたらしくもないのである。建武中興から始まったいわゆる南北朝の争いは、ちょうどこの荘園の有様が移りゆきつつあった、その過渡の最中に起った出来事であって、絶えざるその兵乱のために、無意味な地頭の増加は、あるいは一時食い止められたのであろうけれども、南北合体とともにまた最初の傾向どおりに大勢は動き出したのである。さてこうなると、最初からして責任なくして権利のみあった本所や領家はもちろんのこと、地頭ですらも全く無責任のものとなり、荘園内に善意の有力者がある場合をば別として、さもなければ全く無秩序の状態に陥ることとなったのだ。かような有様が永続されては、本所や領家や地頭名義人にはよいかも知れぬけれど、日本のためにはこの上ない災難である。本所や領家は、最初鎌倉からして地頭を置かれた時には大いに憤慨し、何とかして侵害された権利を恢復しようと焦慮したのであるけれども、承久・建武の経験をした後は、もはやあきらめをつけ、この上は武家と争うことを止めるのみならず、反対に武家の勢力を利用して、もってまだ手許に残って失われずにある権利だけを繋ぎ留めようとした。まことに思い切りのよい賢い分別である。しかしながらそれでもなお無責任者の手に莫大なる権利を残しているのであるからして、日本の健全なる発達のためには、荘園制度をばどうにかして顛覆する必要があり、実際に大勢はその打破に向って進みつつあったのだ。かの守護あるいはその下にある有力な被官人らが荘園を横領し、年貢を本所領家に運ばなくなったのは、すなわち成るべきように成り行《ゆ》いたもので、それらの横領者の御蔭でもって、将来の日本の秩序が促進されるということになったのだ。されば足利時代の末が群雄割拠の形勢になったということは、日本のためにひたすら悲しむべきこととのみはいい難く、しかしてこの大勢を促進したのは、すなわち応仁の乱であってみると、この兵乱は日本の文明史上案外難有味のあるものになる。ところが一条禅閤兼良は曠世の学者であったとはいいながら、政治家としては極めて簡単な保守主義で、准后親房のような達識ではなかった。この大勢を看破せず狂瀾を既倒に回さんとのみ考えた。して見ると日野家の出なる義政夫人を母とし、この兼
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