原因は主として非尚武的な支那文明を過度に採用したからである。支那人が人種として尚武的であるか、あるいは非尚武的であるかは、しばしば論議せらるることであるが、これは今予の論ぜんと欲する点ではない。のみならず仮りに支那人をもって、本来の非尚武的人民ではないとしたところで、およそ民族の尚武的分子というものは、その文明の爛熟とともに次第に比較的減少をなすものであるからして、支那文明の絶盛期である唐代に、尚武的色彩があまり濃厚でないのは、これはなはだしく怪しむに足らぬ。しかしながら文明の燦然たる盛唐ですらも、予は尚武的分子の減退の程度はなはだしきに過ぎたと思う。ましてそれよりも未開の程度にある当時の日本が彼の系統的なのを喜んで、その本質をそのままに輸入し、日本が支那よりもさらに深く尚武的要素の必要を感ずるものだということに思い至らなかったのは、これすなわち政治の統治力の足らなかった有力なる原因であると考える。血液そのものの成分には欠点が少なくとも、日本の血管に文明の血の循環が十分でなかったのはその故主としてここに存せなければならぬ。
鎌倉時代の文明は藤原時代の継続で、多少デカダンに陥りていこそすれ、古典的なる品質において向上しているとはいい難い、しかれども武力を基とした、新政治は、その系統的制度としての価値こそ前時代に劣る観があるとはいえ、溌溂たる活力をそなえたもので、したがって、その文明の伝播力に与えた衝動は、前代におけるがごとく微弱な者ではなかった。もし鎌倉幕府が今少し長く持続し得たならば、日本の文明はおそらくもっと早く進歩したであろう。しかしながらたといさほど長く持ちこたえなかったにもせよ、この新政治が与えた衝動の決していたずらに終らなかったことは争われない。しかして足利時代はその後を承けたものである。将軍が、公卿化して京都におっても、政治は武家政治に相違なく、その与うる衝動力は藤原時代よりもむしろ旺盛であった。そればかりでなく、武家政治の本拠が文明の源泉である京都にあったということが、鎌倉時代すなわち幕府の京都になかった時代よりも、むしろ京都文明の伝播に好都合であった。ここにおいて足利時代の京都文明は古典的見地からしていえば鎌倉時代のそれよりもさらにデカダンの趣を加えているのにかかわらず、日本全体の文明はその尚武的分子の加わったために、藤原時代そのままの復活にはなら
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