一種に限らず、廷臣のほかに武人という分子をもその中に算するに至ったという有様になったのが、これすなわち階級精神を弱むる一因たるに相違ないので、つまりその打破に向って一歩を進めたものである。しかしてこの傾向は承久の役の鎌倉の勝利および建武中興の不成功によりて、いよいよ跡戻りし難い大勢となった。武人化は常に階級制度の衰微に伴うものとはいえないけれども、この場合においてはたしかに民主主義に一歩を進めたものなのである。しかして足利時代というものは、実にこの大勢の成した結果だとすれば、たといその文明の本質において大いに復古的の点があるにもせよ、これを藤原時代に比して顕著なる差異のあるものと考えざるを得ない。
 第三に足利時代のその既往に比して異り、したがいて藤原時代と大いに同じからざる点は、文明の伝播力の強弱の差である。足利時代において日本の文明の分布が、前時代に比し、すこぶる普遍平均の度を加えたのは、これ一には当時における文化なるものが、藤原時代において上流社会の壟断《ろうだん》するところとなっておった文明に比べて、その典雅の度を減じて通俗になり、卑近になり、必ずしも上流者流の間にのみ限らなければならぬ底《てい》のものでなくなったことに基づくとはいいながら、なおそのほかに伝播力が藤原時代に比して大いに増加したということも、そのまた有力な一原因をなしている。そもそも文明の伝播なるものは、ある意味において伝染病と同様であって、同じ伝染病でも時と場合によって、伝染性の強弱一様でないごとくに、本質を同じくする文明でも、時代によってその波及力に差等がある。本質と伝播力とは必ずしも並行するものではない。しからばこの伝播力が何からして最も有力なる衝動を受けるかというに、それはすなわち政治である。政治は文化の一要素をなすのみでなくあわせてこれを波及せしむる原動力をなすものである。藤原時代においては、その文明の品位がいかに優秀であったにせよ、その制度がいかに整然たるものであったにせよ、その政治の実施に必要な統治力が微弱であったため、大いに伝播すべきはずでありながら、しかもその伝播ははなはだ遅々たるものであった。あたかも道路の予定線の網のみが系統的に整備しておって、しかしてその線をたどる通行人の極めて寥々《りょうりょう》たるがごときものである。しかして何故に統治力が微弱であったかというに、その
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