もやや遠い所では、東北は若狭、越前、美濃、西南は紀、泉、播州等であった。それよりも遠くなると東北は越後、坂東、西南は中国筋から九州へかけての旅行もやった。特になじみが深かったのは越後である。これは上杉相模入道の子息なる民部大輔といえる者、仁慈博愛の武士であって、宗祇は特にその引立てを得、重恩を荷なったからである。されば右の民部大輔が長享二年三月生年三十六歳をもって鎌倉であえなき最後を遂げた際に、宗祇は哀慟のあまり、一品経を勧進して彼のための追善を営んだという。かくのごとき縁故があるので、その後も宗祇はたびたび越後におもむいた。また彼が中国九州におもむいたのは、主として大内家を目的にし、越前におもむいたのは、朝倉をたよって出かけたのであるこというまでもない。かく席暖まるいとまもなく、京田舎を出入した宗祇は、晩年遠国下向の時となると、その平素もっとも大切にしている『古今集聞書』以下、和歌、『左伝』、抄物等を一合の荷にまとめ、人丸の影像とともに、これを実隆のもとに預けて出発するを例とした。人丸の影像というものは、早くから歌人の崇拝の目的物となっておったもので、中には他の歌聖、京極黄門その他などを、影像にする向きもあったけれど、最も尊ばれたのは人丸像で、その影供は歌道の一大儀式となっておった。実隆は歌道において飛鳥井の門人であったこと前にも述べたごとくであるが、その門人たる実隆が、飛鳥井家へ年始の廻礼などに行くと、飛鳥井家では、これを人丸以下の影像を飾った室に引見したものだ。また実隆はかつて兼載から、信実の真跡と称する沽却物の人丸影像を示されて、大いにこれに涎垂《えんすい》したこともある。宗祇の所持の人丸影像は、信実の真筆ではなく、これを手本にして土佐刑部少輔光信に写さした新図であった。宗祇がこれらのものを、旅行に際して実隆に預けることとしたというのは、たんに不在中の紛失を恐れたためのみではない。実は長享二年宗祇の北国行のさい実隆との間に約束が結ばれ老体でもあり、遠国へ下向すると再会は期し難いことであるから、もし旅先で万一の事があり、帰京かなわぬ仕儀となったならば、聴書等を実隆に附与しようといったのである。したがってこれを実隆に預けるというのは、万一の際そのまま留め置くようにとの意味なのである。はたして宗祇はその歿する前年すなわち文亀元年の九月に『古今集聞書』切紙以下相伝の
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