出來る。能樂を以て西洋の歌劇に擬し、其中に存する所の、現代趣味に追從し得る部分をのみ樂む場合は別として、若し多少の史的興味をも混じて能樂を觀やうとならば、能衣裳は缺くべからざる附き物であつて、袴能や素謠のみでは、迚も此感興を遺憾なく與ふることが出來ぬ。而して此能衣裳が即ち實に吾人をして足利時代とロココとの相似を思ひつかしむる種となるものである。ロココの美術には金色の燦たるものがないではない。併しながら其金色は金閣寺の金色、能衣裳の金色と同じであつて、金色其ものゝ本性を發揮さす爲めと云はむよりは寧ろ其光によつて周圍の淋びしさを掲焉に反映する爲めに、換言すれば對照の具として用ゐられて居ると云ふ方が適當であると思ふ。換言すればロココを文やどる金色は極めて微かなものであつて、ロココの全體の銀色であることは決してこれが爲めに妨げられて居らぬやうに思はれる。加之瀟洒たるロココの後に燦爛として且つ堂々たるアムピール式の接するのは、丁度我國に於て足利文物の後に桃山式なるものゝ來ると一般で此點に於ても東西趣を同くする所がある。此の如く論じ來らば、或は吾人の説を難じて、西史に於けるルネッサンスは中世的であるに反し、ロココは近世に屬するものである。然るをルネッサンスに似たる足利時代が亦ロココにも似ると云ふは、これ甚しき矛盾であつて、論旨の歸著する所を知るに苦むと云ふ人もあるかも知れぬ。然れどもロココなるものは、或意味からして論ずれば即ち第二のルネッサンスであるから、足利時代が、此兩者に共通な點があると云ふことは、格別驚くに足らぬことである。但し斷はつて置くが足利時代はロココよりも寧ろルネッサンスに近く、近世的ではなくして、中世的と云ふべきものである。
 以上の外に我足利時代の歐洲の中世史とを對比して、尚ほ數多の類似の點を發見することが出來る。海外遠征熱の勃興の如きは即ち其一である。歐洲人の新陸地發見をば或る史家は之を近世の始めとなし、他の史家は之を中世の終りとするのであるが我國に於て海外遠征の盛になつたのは實に足利時代である。成る程鎌倉時代にも宋元との交通はあつた。しかし夫は其頻繁の度に於て、冐險を試みた距離の遠近に於て、求法の僧侶以外に各種の人物が遠征した點に於て、將に貿易が一定の體裁を具備した點に於て、共に足利時代に於ける明との交通に比肩し得るものではない。足利時代の明貿易は、殊に其起點を堺港に移してより以來は、彼の以太利諸市が十字軍時代に營んだ東方貿易と酷似する體裁を具ふることゝなつた。商人僧侶の外に、武人も行き美術家も出かけた。行く先きも必支那とは限らず、足利時代の末には更に進んで交趾、呂宋までも赴いた。往返の船舶が鎌倉時代に比して遙かに多かつたことは、自ら想像が出來る。されば若し我國史に於て地理發見時代を求むるならば、之を足利時代に擬する外はなからう。
 更に類似の點は、商業市の勃興である。歐洲に於ける十二世紀以來の都市の興隆は、今爰に之を説くことを要せぬが、我國に於て幾分にても之に比すべきものありとすれば、それは足利時代である。足利時代以前に在りては、政治の中心たる京都や鎌倉にこそ、時代相應の都市生活を認むることが出來るけれど、通商貿易の結果として著るしき發達を遂げた都市といふものは、殆ど見當らない。其之れあるは足利時代に始まる。但し足利時代に於ける斯かる都市の數は、歐洲の中世に於ける以太利南佛等の地中海沿岸諸市、及び北歐のハンザ諸市等の如く多いのではなく、僅に堺、山口等若干あるのみであるが、其多少を論ぜず兎に角かゝる現象を見るのは、實に足利時代に始まることである。而して此等諸市中最も繁榮で、且つ其歴史もいくらか精確に辿ることの出來るのは、唯堺港のみであつて、山口及び其他に至りては、茫として之を明にし難いが、しかし其堺港の歴史だけでも頗る興味あるもので、若し王侯の武力も容易に屈することが出來ず、隱然獨立の勢をなした彼のハンザや以太利の諸市の如きものを我國に強て求めたならば、それは足利時代に於ける堺港のみであらう。予曾て黎明リヰエラ・ヂ・レ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ンテを過ぎて、檸檬、橄欖の木の間から、風に飽いた數隻の帆船が、將に白まむとする東天に向へるのを望みて、十字軍時代に於けるジェノア市民の傲然たる意氣を想ひ起こした。昔堺港の納屋衆が、淡路島かくれに西せる渡唐船を見送つた意氣は、正に此のジェノア市民の壯心と相伯仲するものであると思ふ。
 尚ほ一歩を進めて、本邦史上に於ける足利時代の出色なる所以を擧ぐれば、それは下層人民の發達である。抑も武家政治が始まつてから、社會の中心も亦下に移つたことは、これ吾人の屡々論ずる所であるが、しかし鎌倉時代の間は、武士といふものが社會の表面に浮き出しただけで、平民といふものは、まだ物の數に算へられて居らぬ。嚴密に云へば、或は既に物の數に入つて居つたらうと思はれる節もあるけれど、之を徴するに足るべき文献は甚少い。然るに足利時代に入ると此平民と云ふものが、中々に侮り難い社會的勢力となつて來る。平民の中に算へらるべきものゝ一なる彼の近畿の和戰の決を左右したといふ堺商人のことは、今更繰り返して論ずるまでもないが、それ等よりも遙に低い生計を營んだもの、即ち現代の通用語を借りて云へば、所謂第四級民なるものも此時代に於ては可成りの勢力となつた。土一揆の爲めに大小名が苦められたこと屡々であるのみならず、將軍と雖、亦これが爲めに惱まされたといふのは、これ即第四級民の下尅上であつて、而して其姑息な療法として實施された社會政策は、實に彼の枚擧するに遑なき程の徳政である。之を歐洲の歴史に徴するに、宗教改革の運動に伴ひて、多く平民の崛起を見るを例とする。英吉利のロラード、ベーメンのフッシイテン等皆それであつて、佛國にも亦此種の運動があつた。就中最も後れて起つたのは、ルテルの改革運動に伴ひて發生せる、有名なる獨逸の農民の亂である。此農民の亂なるものは歐洲に於ける第四級民の最初の大運動であると云ふ所から、特別の興味を以て西洋の史家に研究せられて居る題目であるが、吾人は我國足利時代の土一揆を以て、正に此農民の亂と併せ考へて、互相發明する所あるべきものであると確信する。
 斯くの如く論じ去り論じ來れば、鎌倉時代に於て既に宗教改革を成就した我國は、尚ほ足利時代を終るまでに、文藝復興、都市の勃興、海外遠征、及び平民勢力の發達等、凡そ歐洲の中世史に於て大事件と目せらるゝ殆ど總てのものを經驗し了つたと云て差支ない。事件によつては歐洲に顯著にして、我國に稀薄であるものもあるけれど國情の異る所、多少程度の相違のあるのは、當然のことである。して見れば歐洲の歴史に於て、十六世紀の宗教改革以後を斥して近世と云ふと同じく、足利時代に接する徳川時代を以て、我國の近世史となし、此兩時代の間に一段落を劃するを、研究の便宜上適當と認めざるを得ない。
 最後に論じなければならぬのは、我國史に、特に足利時代といふ一時代を劃する必要の有無である。足利時代の終りについては、今論じた所に讓つて別に辯じないが、其足利時代と鎌倉時代との間に段落を設くることにつきては、少しく言を費す必要がある。鎌倉時代と足利時代とは、共に日本の中世史に屬すべきものであると同時に、兩者の間に差別があるのは、恰も歐洲の中世に於ても、其前期と後期と一概に論ぜられぬのと同樣である。一言を以て言へば、鎌倉時代の文物の特色は、其ナイーヴな點にあるのであるが、これは足利時代に於て大に缺乏して居るものである。ナイーヴな度は、鎌倉時代の末期に於て漸次に減退し、足利時代に入りて甚しく稀薄となつて居る。足利將軍が其政廳を京都に置いたことは、單に政治上のみではなく、所謂文明史から見ても、重大な事件であるのみならず、抑も政治と文明とは、實に決して沒交渉のものではなく、文明の諸要素中、政治が其最も重大なものであることを考ふる時は、吾人は我國史に特に足利時代を設くることの決して徒爲でないことを信ぜざるを得ぬのである。



底本:「日本中世史の研究」同文館
   1929(昭和4)年11月20日発行
初出:「藝文 第三年第十一号」京都大学文学部
   1912(大正1)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:はまなかひとし
校正:土屋隆
2010年1月21日作成
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