足利時代を論ず
原勝郎
−−
【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「日/咎」、第3水準1−85−32]
−−
足利時代が多くの歴史家からして極めて冷淡な待遇を受け、單に王室の式微なりし時代、將た倫常壞頽の時代とのみ目せられて、甚無造作に片付けられて居つたのは、由來久いことである。されば若し此時代に特有なる出來事として、後世の研究者の注意を惹いたものがあるとすれば、それは書畫、茶湯、活花、又は連歌、能樂等に關係した方面に興味を持つた場合であるので、一口に之を評すれば骨董的興味から觀察した足利時代であつたのである。足利時代が抑も我國史上如何なる地位を占め、其前後の時代と如何なる關係を有して居るか、又今迄知られてあるものゝ外に、尚ほ同時代に於て史家の注意を惹くに足るべき題目の有無如何等に至りては、あまり深く講究されては居らなかつた。換言すれば足利時代史の眞相といふものが未だ充分に發揮せられて居なかつたと云つてよい。
足利時代の眞相の研究が此の如く久しく等閑に附せられて居つたのは、其必しも鎌倉時代の如く、史料の不足であるが爲めのみではない。鎌倉時代は其前半の史料として、吾妻鏡といふ頗る結構な記録を有して居り、其記事の豐富にして且つ多方面に渉つて居る點に於ては、足利時代を通して搜しても、到底其匹儔を見出すこと困難な次第ではあるが、併しながら其吾妻鏡なるものも、其中で最も面白い部分は前半である。而して此前半は、吾人の見を以てすれば、後代の編纂物であつて、どう見ても或史家の云ふ如き、正確な官府の日記とは、受け取れない部分である。されば吾妻鏡が、鎌倉時代前半の史料として、非常に貴重なものであることは、勿論であるけれど、其吾妻鏡に載つて居るからと云つて、吾人は直に之を輕信することは出來ぬ。けれども吾妻鏡に記載してある時代は、此記録を第一の便りとして、兎に角見當をつけることが出來るからまだしもであるが、鎌倉時代の後半、即吾妻鏡を離れた時代に入ると、何を重な史料として研究したらよいのか、殆ど雲をつかむやうな氣がする。武家記録の皆無であることは論を費すまでもないが、公卿日記の方も、園太暦の時代に入るまでは、殆ど缺乏と云つてよろしい。否全く無いと云ふのではないが、殆ど採るに足る日記が無いのである。而して其園太暦とても史料としては餘りに一方に偏したものであつて予の意見を以てすれば、玉葉よりも明月記よりも興味の薄いものである。して見ると鎌倉時代後半について、少し氣の利いた歴史を組み立てるには、數多の文書に頼る外はない。數から云へば此時代に關係のある文書は決して少い方ではないが、文書のみを土臺にしなければならぬ時代の歴史は、隨分心細いものである。
足利時代は史料の多少といふ點について、鎌倉時代と大に其選を異にして居る。成る程足利時代には吾妻鏡ほどに重寶な記録のないことは事實であるけれど、それより少しく下つた價値のものを求むれば、公武共に中々多く、足利時代全體に亘りて殆ど缺漏なしと云つて可なる位である。殊に蔭凉軒日録の如きに至りては、被覆する時代の長短に於てこそ、吾妻鏡に及ばぬけれど、其多方面なる點に於ては、殆どこれと雁行し得るものであつて、社會史、人文史の研究者にとりては、多く得難い好記録である。而して此等記録を補ふべき文書の數に至りても、足利時代は遙かに鎌倉時代に勝れて居る。是によりて之を觀れば、足利時代は決して史料缺乏の時代ではない。足利時代の研究の久しく捗らなかつたのは、其原因は他に存するではなく、唯研究を怠つて居つたからである。
然るに近年になつて、此史學上久しく荒蕪地となつて居つた足利時代に、耒耜を施すものが次第にあらはれて來たことは、吾人の大に愉快とする所である。雜誌「歴史地理」に掲げられた堺港につきての三浦博士の論文の如きは、該時代研究中の最も出色のものである。尚ほ本年四月下旬東京に催されたる史學會の大會に於て、同博士の足利時代の外交論の外に、笹川文學士の東山時代につきての講演のあつたことは、これ我國の有力なる史家の努力が既に大に足利時代に傾注さるゝに至つたことを明に示すもので、吾人が今更該時代研究の必要を爰に呶々するのは、少しく時機に後れたる趣があるけれど、尚少しく所感を述べて蛇足を添へやうと思ふ。
或る意味から云へば、足利時代は藤原時代の再現とも見られる。藤原時代に出來た歌集、物語の類、殊に源氏が、惟り足利時代の縉紳にもてはやされたのみならず、武家及び其被官、家來、さては其また陪臣に至るまで、非常に盛な好尚を以て、此等の古文學に耽溺した。主を尅し、骨肉を屠つた人々の中にも優艶なる詞藻のあつた輩も少くない。能狂言に於て古の風流兒在原業平が、歌舞音曲の化神として現はれたのを見る毎に、吾人は數百年を隔てたる此兩時代の間に、案外に深き關係のあることを考へるのを禁ずることが出來ぬ。されば本邦人文史上に於て、足利時代を以て藤原時代に對し、之をルネッサンスと見立てるのも、必しも全く謬見ではあるまい。
勿論足利時代は足利時代であつて、藤原時代をその儘に再現したものでないのは、丁度歐羅巴のルネッサンスが、決して古代希臘をその儘復活さしたのでないと同じことである。歴史は繰り返へすと云ふ格言は、一面の眞理を含んで居らぬではないけれど其繰り返へすと云ふ意味は、彼の走馬燈が一回轉を了へて、以前の位置に戻つたのと同樣なのではない。ロレンツォ・デ・メヂチが、カレッジの別墅に文士を集めて清談を試みたと云ふ夜遊は、プラトンがアカデミアの昔を忍んだのであるといふけれど、單に人相同じからざるのみにあらで、其の山河もちがふ。よしそれをば眼中に措かぬことが出來るとしても、如何とも致し方のないのは背景となる時代の相違である。此繰り返へすが如くにして必しも繰り返へさず、繰り返へさぬやうに見えて、而かも繰り返へす所、即ちこれ歴史の興味が眞に存する所である。
享樂主義が支配した點に於て、足利時代は猶ほ藤原時代の如くである。而して若し淫靡といふことが享樂の流弊であるならば、此點も亦兩時代に共通のものである。源語其他の古文學を讀みて猥褻だと感ずる者は、足利時代にもてはやされたお伽話を見て其甚しく露骨なるに驚かぬ筈はない。然れども同じくこれ享樂主義であるとは云ひながら、足利時代と藤原時代との間には、大なる差別がある。若し藤原時代の享樂を以て、苦勞を知らぬ千金の子の道樂に喩へることが出來るならば、足利時代の方は燒ヶ腹の道樂である。燒ヶ腹の道樂と評するのが、餘りに時代を自覺させ過ぎて居るといふ嫌ひがあるならば、更に之を盜賊や詐僞師が刹那の不義の快樂を貪りつゝ而かも戰々兢々として居るのに喩へてもよろしい。否此方が却りて適切かも知れぬ、櫻かざして日※[#「日/咎」、第3水準1−85−32]の永きを喞てる者と、戰陣の門出でに隻脚の草鞋をしめ殘して連歌をやる者とは、決して同日に論すべきものではない。藤原時代を春とすれば、足利時代は小春である。小春の暖かさに催されて返へり咲きをする櫻があつても、小春はやはり小春であつて、明かに眞の春と異る所がある。要するに吾人は足利時代の文物に對して不安の念を懷くのを禁ずることが出來ないのである。
次に吾人は色に譬へて足利藤原の兩時代を比較して見やうと思ふ。松の緑の間に朱の鳥居といふ取り合はせは、奈良や京都に多く見る所の景色であつて、吾人は之に對する毎に藤原時代を追想せざるを得ない。倭繪の主色である所の緑と朱とが、藤原時代の代表的色彩であるとすれば、足利時代は銀色である。藤原時代が緑朱二色の中で、主として孰れに傾いて居るかは、一寸決し難い問題であるのみならず、簡單な色に配して、以て複雜なる時代の特徴を表示し盡くすことは、抑も無理な注文かも知れぬが、然かし足利時代は慥かに銀色である。而かも※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]びた銀色であることは、動かし難い評であると信ずる。足利時代のすべての事物は、皆此銀地を土臺として、其上に畫かれて居るのであつて、彼の多年江湖に落莫し、朝倉家に投ぜむとして、琵琶湖を渡れる義昭將軍が詠じたと云ふ、蘆花淺水秋なる句は、實に此銀色を遺憾なく發揮して、足利文物の總まくりをなしたものと云つて差支ない。
連歌も亦足利時代の特徴の一面を代表するものである。論者の中には此時代の文物を一括し、禪の一端を以て之を擧ぐるものがある。これは一理ある説で、榮西によつて興つた禪宗は、既に鎌倉時代に於て宮廷にも入り、又數多の武將の歸依をも博したけれど、要するに禪宗の鎌倉時代に於ける活動は、地位あり文字ある少數者の修養に影響したに過ぎぬので、禪宗と一般文明との關係は、鎌倉時代に於ては、未だ密接だとは云ひ難い、禪宗が一般文物に浸潤したのは、足利時代に至りて始めて認めらるべき現象である。換言すれば所謂禪味なるものは、足利時代に於て始めて顯著なるものである。されば此點からして論ずる時は、禪が足利時代の代表であるとも云ふ事が出來る。或る論者はまた茶の湯の一端を以て東山時代の文明を括擧し得るものだと云ふ。これも亦尤な説で、茶の湯こそは鎌倉時代及び其以前には無く、全く足利時代に始まつたものである。然れども若し足利時代の自暴自棄に陷りて居るさまを表示するに、最も適當なものを求むるならば、それは連歌に越すものはない。連歌は其淵源甚古くして、決して足利時代に始まつたものではないけれど、足利時代以前の連歌と云ふものは、上句と下句と合して、渾然たる一首の歌を成すものであるに反し、足利時代に盛を極めた連歌は、上句と下句との間に少しのヒッカヽリがあるのみで、意味の完全なる連絡とては見出し難く、要するに際どい機智の運用を貴としとするのみである。而して連歌に「て」の字を以て結べるものゝ多いのは、これ即ちウッチャリの氣象を自ら發露したもので換言すれば自暴自棄を表示するものである、絶望を語るものである。若し吾人の説を疑ふ人があるならば、試に連歌の集を繙いて見るがよい。必ず吾人と所感を同くするに違ひない。さてまた宗祗其他の連歌師が、田舍の風流氣ある大小名の招きに應じて、遍歴に暇なかつたのは、彼の歌枕をさぐりに出たと云ふ藤原時代の歌人と大に其趣を異にして、文藝の行商人たる點に於ては、歐洲の中世にあつたと云ふ、ミンネゼンゲルやトルバドールに類似して居るけれど、我國に於て適切に此西歐の漫遊藝術家に相當するものは、足利時代の連歌師よりも寧ろ平泉の秀衡若くは鎌倉將軍の幕庭に收容された歌人又は伶人の徒である。足利時代の連歌師は、ミンネゼンゲルやトルバドールに比べて、權威が少い、熱がない、温みが乏しい。澁いと同時に甚淋びしいものである。ワルトブルグの歌ひ戰の如きは到底彼等連歌師に望み得べきものではなかつた。
さりながら銹びたりと雖銀色なる足利時代には、淋びしげなる光りがある。散文的な實際的な鎌倉時代とは少からぬ相違がある。此點に於て足利時代は歐洲第十八世紀に於けるロココ式の文物に似たとも云へるだらうと思ふ。散文的な十七世紀に比べたならば、次の十八世紀は光澤に於て大に優る所のものがある。それと同じく足利時代は、之を鎌倉時代に比して、新鮮な活力を有する點に於てこそいくらか遜色があるけれども、而かも鎌倉時代に缺乏して居る光澤といふものがある。デカダンと云へばそれまでゞあるが、光澤はやはり光澤である。然らば如何なる種類の光澤かと云ふ問が起らうが、適切な例は能衣裳である。能衣裳の今日傳はつて居るものゝ中には、無論徳川時代の意匠に成れるものも混じて居やうが、大體に於ては吾人は之を足利時代の意匠だと思ふ。而して此能衣裳ほど適切に足利時代の好尚を表露したものはない。とり分けて微かに金絲を文どつた能衣裳に對して此感が最も深いのである。斯かる能衣裳を着けて居りさへすれば、極めて現代的な能役者に舞はせても、それでもなほ四條の河原能の光景を想ひ浮べることが
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 勝郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング