無いと云ふのではないが、殆ど採るに足る日記が無いのである。而して其園太暦とても史料としては餘りに一方に偏したものであつて予の意見を以てすれば、玉葉よりも明月記よりも興味の薄いものである。して見ると鎌倉時代後半について、少し氣の利いた歴史を組み立てるには、數多の文書に頼る外はない。數から云へば此時代に關係のある文書は決して少い方ではないが、文書のみを土臺にしなければならぬ時代の歴史は、隨分心細いものである。
足利時代は史料の多少といふ點について、鎌倉時代と大に其選を異にして居る。成る程足利時代には吾妻鏡ほどに重寶な記録のないことは事實であるけれど、それより少しく下つた價値のものを求むれば、公武共に中々多く、足利時代全體に亘りて殆ど缺漏なしと云つて可なる位である。殊に蔭凉軒日録の如きに至りては、被覆する時代の長短に於てこそ、吾妻鏡に及ばぬけれど、其多方面なる點に於ては、殆どこれと雁行し得るものであつて、社會史、人文史の研究者にとりては、多く得難い好記録である。而して此等記録を補ふべき文書の數に至りても、足利時代は遙かに鎌倉時代に勝れて居る。是によりて之を觀れば、足利時代は決して史料缺乏の
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