論者又或は曰く、科擧の原則そのものは嘉すべきも、其試驗の實際的方法宜しきを得ず、之を試るに經世有用の學術を以てせずして、詩文を主とし八股の舊套に捉はれて之に拘泥せる最も非難すべきなりと。此説一理あるに似たり。然りと雖、所謂惡税は徴收簡易にして、以て確實なる財源となし得べきに反し、所謂良税なるものゝ徴收煩雜、而して徴税の目的に適應せざるもの多きこと、これ司税者の常に嘆ずる所。されば若し税を徴することなくして已むを得ば、則ち論なきも、國家必ず課税の必要ある以上、税目の良否を論ずるは第二の事に屬せざるを得ずして、司税者の苦衷にも大に同情を寄すべきものあると一樣に、若し國家が門戸を開放し、人材の登庸に公平を持するが爲めに、何等かの試驗を行ふ必要あること爭ふべからずとせば、試驗科目の是非の如きはこれ枝葉の問題なり。科目の如何を論ぜず試驗を行ふは、全く之を行はざるに優ること明なればなり。此點よりして考察せば、試驗科目の適否の如きは、科擧の美制たるに累をなすものにあらざること昭々たるべし。
 更に一歩を進めて科擧に於ける試驗科目の當否を論ずるも、亦一概に迂遠なりとして之を排斥すべきにあらざるを明
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