[#レ]榜之夜、鳴鹿吹[#レ]笙之時、士女如[#レ]雲、車馬四溢、譚者雖[#二]舌敝而賑焦[#一]、猶未[#レ]能[#レ]髣‐[#二]髴其萬一[#一]、」と。憾むらくは予の彼地に遊べるや、時に後くれて此盛況を見るに及ばざりしを。此よりして南利渉橋を渡れば、即これ有名なる秦淮の酒家なり。余懷が板橋雜記に、「逢[#「逢」は底本では「蓬」][#二]秋風桂子之年[#一]、四方應[#レ]試者畢集、結[#レ]駟連[#レ]騎選[#レ]色徴[#レ]歌、」と記るし、科に逢ふ歳の陰暦八月此歌舞の郷亦其餘惠を受け、「平康之盛事」を現じたりと云へり。而かもこれ「文戰之外篇」なれば、今詳に之を説くの要なし。窃かに惟ふに秦淮の盛は時ありて或は疇昔を凌駕すべきも、覺醒せる支那は永く科擧の制を復興することあらざるべし。人は曰く支那を衰へしめたるは科擧なりと。嗚呼科擧果してそれ罪すべきか。
論者動もすれば云へり、科擧は國の殃なりと。清朝の大厦將に傾かむとせるや先づ科擧の制を廢して國を濟はむとせり。而して科擧廢せられて幾ならず國亦滅びたり。若し科擧を以て支那の衰へたる主因となさば、蓋し寃枉[#「寃枉」は底本では「寃抂」
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