鎌倉時代の布教と當時の交通
原勝郎
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佛教が始めて我國に渡來してから、六百餘年を經て所謂鎌倉時代に入り、淨土宗、日蓮宗、淨土眞宗、時宗、それに教外別傳の禪宗を加へて、總計五ツの新宗派が前後六七十年の間に引續いて起つたのは、我國宗教史上の偉觀とすべきものであつて、予は之を本邦の宗教改革として、西洋の耶蘇紀元十六世紀に於ける宗教改革に對比するに足るものと考へる、其理由は雜誌「藝文」の明治四十四年七月號に「東西の宗教改革」として載せてあるから、詳細はそれに讓つて今は省略に從ふ、併ながら講演の順序としては、此等各宗の教義の内容に深入せぬにしても、少くも此等の新に興れる諸宗派を通じての一般の性質を論ずる必要がある。
王朝から鎌倉時代に遷つたのは、一言以て之を被へば、政權の下移と共に、文明が京都在住の少數者の壟斷から脱して、地方の武人にも行きわたるやうになつたのである、勿論この政權の下移に際して、眞の平民即ち下級人民までが政權に參與することを得るやうになつたと云ふ譯ではなく、寧ろ單に器械として使役されたのみに過ぎないので、從て移動のあつた後といへども、依然としてもとの下級の人民であつた、然れども既に社會の中心が政權と共に公卿から武家に下移したる以上、下級人民の立場から云つても、やはり社會の中樞に一歩近づいた譯であつて、社會史の上から論ずれば、下級人民の地位の比較的改良である、換言すれば鎌倉時代に於ては、王朝に於けるよりも、下級人民といふものをより多く眼中に置かなければならなくなつたのである。
時代の趨勢既に此の如くであるから、之に適應する爲めには、文明のあらゆる要素が、いづれも狹隘なる壟斷から離れて普遍洽及のものとなつた、殆ど佛畫に限られ、稀に貴顯の似顏を寫す位に止まつて居つた美術も、鎌倉時代に入ると、多く繪卷物の形に於てあらはれ、單に浮世の日常の出來事が畫題の中に收めらるゝに至つたのみならず、美術の賞翫者の範圍も亦大に擴がり、文學は文選の出來損ひの樣な漢文から「候畢
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