みならず、伊勢又は尾張、三河の如き鎌倉街道筋の國々ですらも、禪宗の風化を受くること關東の諸國より後れ、而かも尾、參の兩國の漸次に禪宗の布教を受くるや、京都より東せる禪僧よりは關東よりして西に戻れる禪僧の感化をより多く受けたことは、頗面白き現象と云はなければならぬ、加之なほそれよりも奇妙なことは、後年禪宗界に於て一廉の根據地と目せらるゝに至りたる美濃の如きも其禪宗を接受したのは遙かに關東殊に相武よりも後くれ、近江と共に鎌倉中葉以後のことであつたのは、つまり淨土宗に比べて一層東進の方針の急劇な爲めである。
 然らば關東に於ける禪宗は如何なる地方的傳播をなしたか、鎌倉時代に於て關東の禪宗の中心とも稱すべきものは相模武藏甲斐の三國であることは云ふ迄もない、甲斐は京鎌倉間の大道ではないけれど、北は信越を控へ、南は駿河から或は相模から、或は武藏から頻繁なる往來があつたと見え、禪宗の感化早く及んだのみならず、其成効も亦頗る目覺ましいものであつた、されば其甲斐の國に夢窓國師の樣な名僧の生れ出でたのも決して偶然ではない、之に反して一部は鎌倉街道に當て居る伊豆は安房上總と同じく、淨土宗のみならず禪宗の感化を受くることも遲く、且つ薄かつた。
 關東に布教した禪僧及び其弟子等は、更に其活動の區域を擴張して信越及び奧州に入つた、即榮西の弟子記外の如きは陸奧の宣教を以て有名であつた、其後では道隆の風化も陸奧の南邊迄は及んだらしい、聖一國師辨圓の東方に於ける活動は甚目覺ましいものとは云ひ難いけれど、其弟子無關は陸奧に入りたりと覺ゆ、又歸化僧なる佛源禪師の如きは、其教化陸奧出羽二國に及んだ、然れども陸奧に入つた禪僧は、盡く佛源禪師の樣に出羽にも入つたのではない、淨土宗の場合に於ける同樣で出羽の禪宗は主として越後から入つたものである。
 禪宗中の臨濟と曹洞との二宗派の、地理的分布の大體を述ぶれば、鎌倉時代には東海東山に臨濟割合に多く、曹洞が少い、これは曹洞が臨濟よりも後れて出たので、曹洞の起つた時に此地方には臨濟の地盤既に固まつて居つたからでもあらう、之に反して北陸道には曹洞が多い、即道元[#ここから割り注]永平[#ここで割り注終わり]營山[#ここから割り注]總持[#ここで割り注終わり]瑩山の弟子明峯素哲歸化僧明極等は主として其活動力を北陸道に集注した、但し其徑路に至つては北陸道を若狹から越後に向て
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