したのである、即ち今の鐵道線路と大なる隔りはない、日數は日足の長い時と短い時とで一樣には行かぬが、冬の日の短き時には將軍の上り下りなどには、十六七日を要し、春の季や夏の日の長い時なれば十二三日位で達し得たのである、個人の旅行は行列の旅行よりも一層輕便に出來る點から考ふれば、いま少し短期で達し得る樣なものであるが、宿驛に大凡定まりあるが故に甚しき差異はなかつたらしい、それは東關紀行などに照らしても明かである、阿佛尼の旅行には十一月に十四日を費した、最もこれは女の足弱であるから例にならぬかも知れぬ、伊勢路即海道記の著者が取つた道筋は、山坂も險阻であるのみならず日數を費すことも多かつたところから、普通の人は皆美濃路を擇んだものと見える、而して淨土僧禪僧も皆此美濃路に出でたが爲、伊賀伊勢志摩の三國は京都に近き國々でありながら、鎌倉時代を終るまで殆ど新宗教の波動を受けなかつたと云つて差支ないのである。
美濃以東に出でた淨土宗の布教僧は、宗祖法然上人の外數多あるが、其主なるものは相模地方まで傳道した隆寛[#ここから割り注]法然弟子[#ここで割り注終わり]と善惠證空[#ここから割り注]同上[#ここで割り注終わり]とである、就中善惠の事業はすばらしいもので、其布教路は中山道を信濃に出て、それよりして南は武藏、北は越後に及んで居り、其弟子隆信(立信)は三河地方に淨音法興は美濃から越前にかけて布教して居る、爰に注意すべきことは、同じく北陸道の國々でも、若狹や越前は京畿の布教圈内に入るが、越後は之と異りて、信濃から往復したもので、全くちがつた方面に屬することである、これは善惠の場合に於て然るのみならず聖光の弟子良忠一派の場合について考へても同じである、聖光は所謂鎭西派の開祖で其人自身は東國に關係を有して居らぬけれど、其弟子なる記主禪師即良忠は、實に善惠以後に於ける淨土宗の東國大布教者であつて、大往還に外づれて居る伊賀、志摩、伊豆、安房の四國を除けば、東海道中いづれの國も良忠か若くは其弟子なる唱阿性眞、持阿良心及び良曉等の風靡する所とならぬはない、否單に海道の諸國許りでなく東山道に於て信濃及び上野、下野、北陸の越後[#「越後」は底本では「趣後」]皆此良忠一派の化導を受けて居る、北陸諸國の中、加賀、能登、越中、佐渡は鎌倉時代の中にまだ淨土宗の風化に接しなかつた、これは地勢の不便によると思は
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