なければ、新しき真理の建設が不可能ということになる。天啓そのものに撞着《どうちゃく》はない。ただ真理を包める人為的附加物《じんいてきふかぶつ》は、之《これ》を除去せねばならぬのである。その際《さい》人間は、飽《あく》まで己れに内在する理性の光りで、是非の判断を下さねばならぬ。理性こそ最高の標準である。愚なる者、僻見《へきけん》に富める者が、いかに排斥するとも、向上心にとめる魂は、よく真理を掴み得る。神は決して何人にも真理を強いない。従って準備的|黎明期《れいめいき》に於《おい》ては、必然的に特殊の人間に対する、特殊の啓示を出すことになる。昔に於《おい》てもそうであったが、現代に於《おい》てもそうである。聖者モーゼスは、果して自国民族からさえも一般的承認を獲《え》たか? 昔の予言者達は、果して世に容《い》れられたか? イエスは何《ど》うか? ポーロは何《ど》うか? いかなる時代のいかなる改革者が、大衆の喝采を[#「喝采を」は底本では「喝釆を」]博したか? 神は変らない。神は常に与える。が、しかし決して承認を強要しない。無智なる者、資格なき者は之《これ》を排斥する。それは当然である。異端邪
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