ゆえん》は、各自バイブルに就《つ》きて査《しら》ぶれば明瞭となるであろう。一例を挙げれば、かのイシアの啓示などがそれである。何と彼自身の個性の匂いが強烈なことであろう。無論彼も独一の神につきて説いて居る。
 が、それは極度に詩的空想に彩色《いろどら》れたもので、エゼキールの隠喩的筆法とは格段の相違がある。同様にダニエルは光の幻影を描き、ジュレミアは天帝の威力を説き、ホシアは神の神秘的象徴に耽《ふけ》って居る。エホバ神に何の変りもないのであるが、各自その天分に応じて、異った啓示を漏らして居る。ずっと後世になりても、その点に於《おい》て何の相違もない。ポーロとペテロは同一の真理を説き乍《なが》ら、必然的に別の角度から之《これ》をのぞいている。どちらの説く所も虚偽ではないが、しかしどちらも真理の一面にしか触れていない。インスピレーションは、神から来る。しかし霊媒は人間である。
 人々がバイブルを読んで心の満足を見出すのは、つまり自分自身の心の反映を、バイブルの中に見出すからである。神につきての知識と、理解とが、極めて貧弱である為めに、彼等は過去の啓示に満足し、別に新啓示に接して、自己の心胸を
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