寸毫《すんごう》の相違もない。ただその神性が、一層よく発揮されて居る丈である。兎に角理性が最後の審判者である。理性を排斥する者は、結局自己の暗愚を告白すると同一である。盲目的信仰は、断じて理性的確信の代理たることはできない。信ずべき根柢《こんてい》のある信仰と、信ずべき根柢《こんてい》のなき信仰とは、決して同一架上のものではない。われ等はどこまでも、理性に向って訴えるものである。われ等がいかなる理由で悪魔的であるか? われ等の主張が、いかなる点に於《おい》て魔的傾向を帯びているか? これを合理的に証明することができなければ、それ等の人達の言説は、ただ一片の空言に過ぎないと謂わねばならぬ。そうした人達が教界の指導者であっては、人生も亦《また》禍《わざわい》なる哉《かな》である。
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(評釈) 今日こそ、英国人士の霊界通信に対する理解が、漸《ようや》く深まりつつあれど、今から数十年の昔に於ける迫害――殊《こと》に既成宗教団からの迫害ときては、正に狂人の沙汰であった。モーゼスを使役して通信しつつある霊達が歎息するのも、尤《もっと》もな次第である。最初はモーゼス自身すらも、
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