底|詐《いつわ》り難きは、各自に備わる人品であり風韻《ふういん》である。果実を手がかりとして、樹草の種類を判断せよとは、イエス自身の教うる所である。刺《とげ》のある葡萄《ぶどう》や、無花果《いちじく》はどこにもない。われ等が、果して正しき霊界の使徒であるや否やは、われ等の試むる言説の内容を以《もっ》て、忌憚《きたん》なく批判して貰いたい。
 これ以上、われ等は此《この》問題《もんだい》にかかり合っているべき勇気を有《も》たない。われ等の使命は、地上の人間の憐憫《あわれみ》を乞うべく、あまりにも重大である。われ等の答が、まだ充分腑に落ちかぬるとあらば、われ等はわれ等の与うる証明が、得心のできる日の到来を心静かに待つであろう。われ等は断じて、今直に承認を迫るようなことはせぬ……。
 われ等がここで是非指摘したいのは、現世人に通有の一つの謬想《びゅうそう》である。人間はしきりに各自見解に重きを置こうとするが、われ等の眼から観れば、そうしたものは殆《ほとん》ど全く無価値である。人間の眼は、肉体の為めに蔽われて、是非善悪を審判する力にとぼしい。霊肉が分離した暁《あかつき》に、この欠陥は初めて大いに除かれる。従って人間の眼で、何より重大視さるるものが、われ等の眼を以《もっ》て観れば、一向取るにも足らぬ空夢、空想である場合が少くない。これと同時に、各派の神学、各種の教会の唱えつつある教義が、その根柢《こんてい》に於《おい》て、格別|異《ちが》ったものでもないことが、われ等の眼にはよく映るのである。
 友よ! 宗教なるものは、決して人間が人為的に捏造したような、そう隠微《いんび》不可解な問題ではない。宗教は地上の人間の狭隘なる智能の範囲内に於《おい》て、立派に掴み得る問題なのである。かの神学的|揣摩臆測《しまおくそく》や、かの独断的戒律、並に定義は、一意光明を求むる、あわれなるものどもを苦しめ、惑わせ、かれ等をして、ますます無智と迷信の雲霧《うんむ》の中に迷い込ましむる資料としか思われない。迷信の曲路、無智の濃霧――これ等《ら》はいずれの世にありても、常に求道者を惑わせる。又人間の眼から観れば、同一宗派に属するものの信仰は、皆同一らしく思われるであろうが、もともと彼等は、暗中に摸索しているのであるから、いつの間にか、めいめい任意の解釈を造り、従ってわれ等の眼から観れば、多くの点に於
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