な霊媒……ずっと上層からの通信を感受し得る、適当な霊媒を選び出すことである。先ず第一にその人物は、受動的の心の所有者《もちぬし》であらねばならぬ。何となれば、本人の心が吸収する丈《だけ》しか、何事も注入し得ないからである。次にそれは愚かなる人間界の先入主《せんにゅうしゅ》から、全然脱却したものであらねばならぬ。利害得失の打算から、真理の指示に背くような魂では、とてもわれ等の用途にはならぬ。
 更に又その人は、一切の宗教宗派的のドグマの捕虜であってはならぬ。これと同様に、一知半解式の知識の所有者であってもならぬ。それ等は自分の無知無学に気づかぬから、手がつけられない。われ等の求むる所は、どこまでも自由で、素直で、純情で、知識慾が旺盛で、真理の吸収にかけて飽くことを知らぬ、清き魂の所有者《もちぬし》であらねばならぬ。
 次にわれ等の仕事は、積極的の自主的意見に捕えられて、矢鱈《やたら》に反対したり、又個人的欲望の奴隷となりて、白を黒と言いくるめたりするような人であっては、殆《ほとん》ど何事も為《な》し得ない。そうした場合には、右の人物の悪癖の矯正に手間どれて、剰《あま》すところが幾何《いくばく》もないことになる。くどいようだが、われ等の求むる人物は、敏腕で、熱心で、真理慾が強くて、寡慾で、そして温和しい魂の所有者であらねばならぬのである。人選に骨が折れる筈ではないか。事によると、そうした人選は不可能、と言った方が或《あるい》は適当かも知れぬ。で、止むを得ないから、われ等は多くの中で、一番ましな人物を選び、これに不断の薫陶《くんとう》を加えつつ、曲りなりにも所期の仕事を遂行せんと覚悟するに至ったのである。われ等としては、先《ま》ずつとめて愛と、寛容性とを、その人物に注入すべく心懸《こころが》ける。すると右の人物は、ここに初めて平生の僻見《へきけん》から離脱し、真理が思いの外に多面的、又多角的である所以《ゆえん》を悟って来る。次にわれ等は、右の人物として吸収し得る限りの、多くの知識を注入してやる。一たん知識の土台《どだい》が据えられると、ここに初めて安心して、上部構造物を築くことができて来る。かくの如くして右の人物が、精神的に次第に改造されて行き、どうやらわれ等の所期の目的と調和して行くことになる。
 無論|斯《こ》うした仕事に失敗は伴い勝ちで、われ等としても、止むなく中途
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