れ霊界の居住者から観れば、戦とは激情に駆られたる霊魂達から成れる、二つの集団間の抗争である。それ等の霊魂達は、悪鬼の如く荒れ狂いながら、陸続《りくぞく》として肉体から離れて幽界へなだれ込む。すると其所《そこ》には、残忍性にとめる在来の堕落霊どもが、雲霞《うんか》の如く待ち構えていて、両者がグルになって、地上の堕落せる人間に働きかけるから、人間の世界は層一層《そういっそう》罪と、汚れの地獄と化して行く……。そしてかかる惨劇の起る動機はと問えば、多くは地上の権力者の只《ただ》一片の野心、只《ただ》一場《いちじょう》の出来心に過ぎないのである。
嗚呼《ああ》友よ! 地上の人類は、まだまだ学ぶべき多くのものがある。彼等は何よりも先《ま》ず、まことの神と、まことの神の為めに働きつつある霊界の指導者と、を知らねばならぬ。真の進歩はそれからである。地上の無智なる者は、或《あるい》はわれ等の示教に対して、侮蔑の眼を向くるであろうが、それ等はしばらく後※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しとし、智慧の教を受け入るることを好む進歩的頭脳の所有者に、われ等の霊界通信を提示して貰いたい。必ずや何等《なんら》かの効果があるに相違ない。尚お盲目者流の為めにも、彼等の心の眼が、他日立派に開くよう、心から善意の祈願をささげて貰いたい。
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(評釈) 極度に切りつめた抄訳ではあるが、意義だけはほぼ通じることと思う。『永遠の生命』の一節は、説く所《ところ》頗《すこぶ》る簡潔であるが、生命を『向上』と、『黙想』との二段階に分け、われ等の当面の急務として、向上に力点を置くべきを説けるは至極賛成である。かの印度思想にかぶれた者は、ややもすれば、途中の大切な階段を無視して、一躍最後の理想境を求めんとするが、これは百弊《ひゃくへい》ありて一利なしである。何の得る所なき自己陶酔、キザな神様気取りの、聖者気取りの穀潰《ごくつぶ》しが、一人出来上る丈《だけ》である。日本国民は、一時も早くそんな陋態《ろうたい》から蝉脱《せんだつ》して、一歩一歩向上の生きた仕事に従わねばならぬ。
次に『非命の死と罪悪』の一節は、正に本章の圧巻で、再思三考に値する。人心の悪化、労資の軋轢、世界現状の行詰等を歎息《たんそく》するものは世間に多いが、それ等の中の幾人かが、かかる世相の由《よ》って来る所を、奥深く洞
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