ヘもういい加減耳に胼胝《たこ》が出来てもよさそうな筈だが、一向聞き倦《あ》きもせずに、にこにこしながら会槌《あいづち》を打っているのだから、これも不思議だ。
 たかが浅間山の麓《ふもと》で、いくぶん徳川時代の古駅の俤《おもかげ》をそのまま止めているというよりほかに何の変哲もない、こんな寥《さび》しい村が、一体何でそんなにいいのだろう? と他の人が聞いていたら、思うかも知れない。
 この間、辻村《つじむら》伊助の「スゥイス日記」を読んでいたら、リルケがその晩年を送りながら「ドゥイノ悲歌」を書いたシャトオ・ド・ミュゾオのある、ロオヌ河のほとりの、ラロンという村なんぞは、汽車で素通りしている。ああいう旅行者にとっては、取るに足りないような寒村が、かえって詩人にとっては仕事をよく実らせてくれるのかも知れないのである。

      三

 浅間山だけがすっかり雪雲に掩《おお》われ、その奥で一人で荒れているらしく、この山麓《さんろく》の村なんぞには、日が明るく射しながら、ちらちらと絶えず雪の舞っているようなことがある。そんな時なんぞ、どうかして不意にその雲の端が村の上にかかると、南に連なった山々
前へ 次へ
全18ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング