がことに女には苦しかったけれども、どうすることもその力には及ばなかった。
 再び春の立ち返った或夕方、女は端近くにいた夫を前にして、この日頃思いつめていたことを口にする決心が漸《や》っとそのときついたように、こんなことを言い出した。
「わたくし達もこの儘《まま》こうして暮らして居りましては、あなた様のおためではないのが漸っとはっきりと分って参りました。父母のおりました間は、それでもまだ何かとお支度などもお調えしてさし上げられておりました。けれども、こう何かと不如意になって来ましては、それも思うにまかせなくなり、お出仕の折などにさぞ見苦しいお思いもなされることがおありでございましょう。ほんとうに私のことなどは構いませぬから、どうぞあなた様のお為めになるようになすって下さいませ。」
 男はじっと黙って聞いていた。それから急に女を遮った。「ではこの己《おれ》にどうせよといわれるのか。」
「ときどきわたくしのことが可哀そうにお思いになりましたなら――」女は切なげに返事をした。「余所《よそ》へいらしっていても、その折にはどうぞいつでも入らっして下さいませ。どうしていまの儘では、見苦しい思いをなさらずに宮仕などがお出来になれましょう。」
 男はしばらく目をつぶって聞いていた。それから急に男は女のほうへ目を上げ、素気ないほどきっぱりと言った。
「この己にこの儘おまえを置きざりにして往かれると思うのか。」
 それきりで、男はわざと冷やかそうに顔をそむけ、破れた築土《ついじ》のうえに葎《むぐら》がやさしい若葉を生やしかけているのを、そのときはじめて気がついたように見やっていた。
 やがて女の漸っとこらえていたような忍び泣きが急にはげしい鳴咽《おえつ》に変っていった。……

 男は、そうやって女のほうから別れ話をもち出されてからも、一日も欠かさず女のもとに来ながら、以前とはすこしも変らないように女と暮らしていた。しかしだんだん女の家から召使いの男女の数も乏しくなり、築土なども破れがちになって来、家に伝わった立派な調度などもいつか一つずつ失われてゆき出しているのが、男の目にもいつまでも分らないはずはなかった。男の様子が昔から見るとよほど変ってきて、以前よりか一層|寡黙《むくち》になりだしたように見えたのは、それから程経てのことだった。しかし男はその様子がそう少し変っただけで、女をいよいよ
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