しげに臥せっているのがくっきりと見えましたので、私はおどろいてその儘《まま》帰って来てしまいましたが、あれはどなたなのですか。」
 尼は当惑そうに、しかしもう見つけられてしまっては為方《しかた》がないように、その女の不為合せな境涯を話してきかせた。郡司《ぐんじ》の息子はさも同情に堪えないように、最後まで熱心に聞いていた。
「そのお方にぜひとも逢わせて下さい。」息子は再び目を異様に赫《かが》やかせながら、田舎者らしい率直さで言った。「そのお方のほうでもその気になって下されば、わたしが国へ帰るとき一緒にお伴《つ》れして、もうそのようなお心細い目には逢わせませんから。」
 尼は、それを聞くと、まあこんな自分の甥ごときものがと思いながら、それでも彼の言うように女も一そそんな気もちにでもなった方が行末のためにもなるのではないかと考えもした。
 尼はいくぶん躊躇《ちゅうちょ》しながらも、何時かその甥の申出を女に伝えることを諾《うべな》わないわけにはいかなかった。

 或|野分《のわき》立った朝、尼はその女のもとに菓子などを持って来ながら、いつものように色の腿《さ》めた衣をかついだ女を前にして、何か慰めるように、
「あなた様もどうして此の儘でいつまでも居られましょう」と言いだした。「こんなことはわたくしとしては申し上げ悪《にく》いことですけれど、いまわたくしの所に近江からいささか由縁《ゆかり》のありますものの御子息が上京せられて来ておられますが、そのものがあなた様のお身の上を知って、ぜひとも国へお伴れしたいと熱心にお言いになって居りますけれど、いかがでございましょうか、一そそのもののお言葉に従いましては。此の儘こうして入らっしゃいますよりは、少しはましかと存じますが。」
 女はそれには何にも返事をしないで、空しい目を上げて、ときおり風に乱れている花薄《はなすすき》の上にちぎれちぎれに漂っている雲のたたずまいを何か気にするように眺めやっていたが、急に「そうだ、わたくしはもうあの方には逢われないのだ」とそんなあらぬ思いを誘われて、突然そこに俯伏《うつぶ》してしまった。
 夜なかなどに、ときおり郡司の息子が弓などを手にして、女の住んでいる対《たい》の屋《や》のあたりを犬などに吠《ほ》えられながら何時までもさまようようになったのは、そんな事があってからのことだった。夜もすがら、木がらしが
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