小さい時のことしか出て来なかった。そういう一部分だけでも、あの方がどういうものをお書きになろうとしているのか見当のつかない事もなかった。が、この作品の調子には、これまであの方の作品についぞ見たことのないような不思議に優鬱なものがあった。しかしその見知らないものは、ずっと前からあの方の作品のうちに深く潜在していたものであって、唯、われわれの前にあの方の佯《いつわ》られていた brilliant な調子のためすっかり掩《おお》いかくされていたに過ぎないように思われるものだった。――こういう生《なま》な調子でお書きになるのはあの方としては大へんお苦しいだろうとはお察しするが、どうか完成なさるようにと心からお祈りしていた。が、その「半生」は最初の部分が発表されたきりで、とうとうそのまま投げ出されたようだった。それは何か私にはあの方の前途の多難なことを予感させるようでならなかった。
 二月の末、森さんがその年になってからの初めてのお手紙を下さった。私の差し上げた年賀状にも返事の書けなかったお詫《わ》びやら、暮からずっと神経衰弱でお悩みになっていられることなど書き添えられ、それに何か雑誌の切り抜き
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