る私にも、お前はまだ少しも気づいていないらしかった。――そういうお前の物思わしげな姿はなんだかそんなときの私にそっくりのような気がされた。
その時、一つの想念が私をとらえた。それはさっき私が戸外に出て行ったのを知ると、お前は何か急に気がかりになって、其処へ下りて来て、私のことをずっと考えておいでだったにちがいないと云う想念であった。恐らくお前はそれと知らずにそんな私とそっくりな姿勢をしているのだろうが、それはお前が私のことを立ち入って考えているうちに知らず識《し》らず私と同化しているためにちがいなかった。いま、お前は私のことを考えておいでなのだ。もうすっかりお前の心のそとへ出て行ってしまって、もう取り返しのつかなくなったものでもあるかのように、私のことを考えておいでなのだ。
いいえ、私はお前の傍から決して離れようとはしませぬ。それだのにお前の方でこの頃私を避けよう避けようとしてばかりいる。それが私にまるで自分のことを罪深い女かなんぞのように怖れさせ出しているだけなのだ。ああ、私たちはどうしてもっと他の人達のように虚心に生きられないのかしら?……
そう心の中でお前に訴えかけながら、私はいかにも何気ないように家の中にはいって行き、無言のままでお前の背後を通り抜けようとすると、お前はいきなり私の方を向いて、殆どなじるような語気で、
「何処へ行っていらしったの?」と私に訊《き》いた。私はお前が私のことでどんなに苦《にが》い気もちにさせられているかを切ないほどはっきり感じた。
[#改ページ]
第二部
[#地から1字上げ]一九二八年九月二十三日、O村にて
この日記に再び自分が戻って来ることがあろうなどとは私はこの二三年思ってもみなかった。去年のいま頃、このO村でふとしたことから暫く忘れていたこの日記のことを思い出させられて、何とも云えない慚愧《ざんぎ》のあまりにこれを焼いてしまおうかと思ったことはあった。が、そのときそれを焼く前に一度読み返しておこうと思って、それすらためらわれているうちに焼く機会さえ失ってしまった位で、よもや自分がそれを再び取り上げて書き続けるような事になろうとは夢にも思わなかったのである。それをこうやって再び自分の気持に鞭《むち》うつようにしながら書き続けようとする理由は、これを読んでゆくうちにお前には分っていただけるのではないかと思う
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