せようとして、殆ど口から出まかせに云った。
「昼顔?」
「だって、さっき昼顔が咲いていると云ったのはお前じゃなかった?」
「私、知らないわ……」
 お前は私の方をけげんそうに見つめた。さっきどうしても見たような気のしたその花は、しかし、いくらそこらを眼で捜して見てももう見つからなかった。私にはそれが何だかひどく奇妙なことのように思われた。が、次ぎの瞬間にはこんなことをひどく奇妙に思ったりするのは、よほど私自身の気もちがどうかしているのだろうという気がしだしていた。……

 それから二三日するかしないうちに、森さんからこれから急に木曽の方へ立たれると云うお端書《はがき》をいただいた。私はあの方にお逢いしたらあれほどお話しておこうと決心していたのが、変にはぐれてしまったのを何か後悔したいような気もちであった。が、一方では、ああやって何事もなかったようにお逢いし、そうして何事もなかったようにお分れしたのもかえって好いことだったかも知れない、――そう、自分自身に云って聞かせながら、いくぶん自分に安心を強《し》いるような気もちでいた。そうしてその一方、私は、自分たちの運命にも関するような何物かが――今日でなければ、明日にもその正体がはっきりとなりそうな、しかしそうなることが私たちの運命を好くさせるか、悪くさせるかそれすら分らないような何物かが――一滴の雨をも落さずに村の上を過《よぎ》ってゆく暗い雲のように、自分たちの上を通り過ぎていってしまうようにと希《ねが》っていた。……
 或る晩のことであった。私はもうみんなが寝静まったあとも、何だか胸苦しくて眠れそうもなかったので一人でこっそり戸外に出て行った。そうして、しばらく真っ暗な林の中を一人で歩いているうちに漸く心もちが好くなって来たので、家の方へ戻って来ると、さっき出がけにみんな消して来た筈の広間の電気が、いつの間にか一つだけ点《つ》いているのに気がついた。お前はもう寝てしまったとばかり思っていたので、誰だろうと思いながら、楡の木の下にちょっと立ち止ったまま見ていると、いつも私のすわりつけている窓ぎわで、私がよくそうしているように窓硝子に自分の額を押しつけながら、菜穂子がじっと空《くう》を見つめているらしいのが認められた。
 お前の顔は殆ど逆光線になっているので、どんな表情をしているのか全然分らなかったが、楡の木の下に立ってい
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