え出した。何だか気のせいか、お前はさっきから私の方を見て見ないふりをしておいでのようでならなかった。すると突然、私のうちに誰にともつかない怒りがこみ上げてきた。しかし私はいかにも虔《つつ》ましそうにスウプの匙《さじ》を動かしていた。……
 
 その日からというもの、私はあの方が私のまわりにお拡げになった、見知らない、なんとなく胸苦しいような雰囲気のなかに暮しだした。私のお逢いする人達といえば、誰もかもみんなが私を何かけげんそうな顔をして見ているような気がされてならなかった。そうしてそれから数週間というものは、私はお前たちに顔を合わせるのさえ避けるようにして、自分の部屋に閉じ籠《こも》っていた。私はただじっとして私の身に迫ろうとしている何やら私にも分らないものから身をはずしながら、それが私たちの傍を通り過ぎてしまうのを待っているより他はないような気がした。とにかくそれを私たちの中にはいりこませ、縺《もつ》れさせさえしなければ、私たちは救われる。そう私は信じていた。
 そうして私はこんな思いをしているよりも一層のこと早く年をとってしまえたらとさえ思った。自分さえもっと年をとってしまい、そうしてもう女らしくなくなってしまえたら、たとえ何処であの方とお逢いしようとも、私は静かな気もちでお話が出来るだろう。――しかし今の私は、どうも年が中途半端なのがいけないのだ。ああ、一ぺんに年がとってしまえるものなら……
 そんなことまで思いつめるようにしながら、私はこの日頃、すこし前よりも痩《や》せ、静脈のいくぶん浮きだしてきた自分の手をしげしげと見守っていることが多かった。
 
 その年は空梅雨《からつゆ》であった。そうして六月の末から七月のはじめにかけて、真夏のように暑い日照りが続いていた。私はめっきり身体《からだ》が衰えたような気がし、一人だけ先に、早目にO村に出かけた。が、それから一週間するかしないうちに、急に梅雨気味の雨がふりだし、それが毎日のように降り続いた。間歇《かんけつ》的に小止みにはなったが、しかしそんなときは霧がひどくて、近くの山々すら殆どその姿を見せずにいた。
 私はそんな鬱陶しいお天気をかえって好いことにしていた。それが私の孤独を完全に守っていてくれたからだった。一日は他の日に似ていた。ひえびえとした雨があちらこちらに溜《た》まっている楡《にれ》の落葉を腐らせ、そ
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