った、二十も年上の男の後妻となったのは、それから程経ての事だった。
 夫は年もとっていた代り、気立のやさしい男だった。その上、何もかも女の意をかなえてやろうとしていた。女も勿論、その夫に、悪い気はしなかった。が、女の一向《ひとむき》になって何かを堪え忍んでいようとするような様子は、いよいよ誰の目にも明らかになるばかりだった。しかし、もう一つ、そう云う女の様子に不思議を加えて来たのは、女が一人でおりおり思い出し笑いのような寂しい笑いを浮べている事だった。――が、それがなんであるかは女の外には知るものがなかった。
 夫がその秋の除目《じもく》に信濃の守に任ぜられると、女は自ら夫と一しょにその任国に下ることになった。勿論、女の年とった父母は京に残るようにと懇願した。しかし、女は何か既に意を決した事のあるように、それにはなんとしても応じなかった。
 或晩秋の日、女は夫に従って、さすがに父母に心を残して目に涙を溜《た》めながら、京を離れて往った。穉《おさな》い頃多くの夢を小さい胸に抱いて東《あずま》から上って来たことのある逢坂の山を、女は二十年後に再び越えて往った。「私の生涯はそれでも決して空し
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