ったのが、いまさら思い出されて、少女には云いようもなく悲しかった。
が、そういう云いしれぬ悲しみは、却《かえ》って少女の心に物語の哀れを一層|沁《し》み入《い》らせるような事になった。少女はもっと物語が見られるようにと母を責め立てていた。それだけに、其頃田舎から上って来た一人のおばが、源氏の五十余巻を、箱入のまま、他の物語なども添えて、贈ってよこして呉れたときの少女の喜びようというものは、言葉には尽せなかった。少女は昼はひねもす、夜は目の醒《さ》めているかぎり、ともし火を近くともして几帳《きちょう》のうちに打ち臥しながら、そればかりを読みつづけていた。夕顔《ゆうがお》、浮舟《うきふね》、――そう云った自分の境界にちかい、美しい女達の不しあわせな運命の中に、少女は好んで自分を見出していた。いままだ自分は穉《おさな》くて、容貌もよくはないが、もっとおとなになったら、髪などもずっと長くなり、容貌も上がって、そういう女達のようにもなれるかも知れないなどと、そんな他愛のない考も繰り返し繰り返していたのだった。
古い池のほとりにある、大きな藤は、春ごとに花を咲かせたり散らしたりした。そのたびに、少女は乳母の亡くなったのは此頃だと悲しく思い出し、又、同じ頃亡くなった侍従大納言の姫君の手跡を取り出しては、一人であわれがったりしていた。そんな五月の或夜、夜ふけまで姉と二人して物語など見ながら起きていると、少女の身ぢかに、猫の泣きごえらしいものが出し抜けにした。驚いて見ると、かわいい小猫が、どこから来たのか、少女の傍に来ていた。前にいた姉が「誰にも教えないで、私達だけで飼いましょうよ」と云って、傍に寝かせてやると、おとなしく寝ていた。もとの飼主がそれを捜していて、見つかりでもするといけないと思って、二人だけでこっそりとそれを飼ってやっていると、猫はもう婢《はしため》たちの方へは寄りつきもせず、いつも二人にばかり絡みついていて、物もきたなげなのは顔をそむけて食べようともしなかった。
一度、姉がわずらって、何かと手が無かったものだから、その猫を婢たちのいる北面《きたおもて》にやり放しにして置いたことがあった。猫は、その間じゅう、北面の方で苦しそうに泣きつづけていた。――すると、わずらっていた姉がふいと目を醒《さ》まして、「猫はどこにいるの。こっちへよこしておくれ」と云うので、「どうか
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