い。(註一)
私の意識上の人生は、突然私の父があらわれて、そんな佗住《わびずま》いをしていた母や私を迎えることになった、曳舟通《ひきふねどお》りに近い、或る狭い路地の奥の、新しい家のなかでようやく始っている。そこに私達は五年ばかり住まっていたけれど、その家のことも、ほんの切れ切れにしか、いまの私には思い出せない。が、その頃の事は、その家ばかりではなく、私に思い出されるすべてのものはいずれも切れ切れなものとして、そしてそのために反《かえ》ってその局所局所は一層鮮かに、それらを取りかこんだ曖昧糢糊《あいまいもこ》とした背景から浮み上がって来るのである。
私のごく幼い頃の、父の姿も、母の姿もあんなによく見慣れていた癖に、少しもはっきりと思い出せない。しかし、そのころ皆で一しょに撮《と》った何枚かの写真の中の彼|等《ら》の姿だけは、ときおりしかそれを取り出して見なかったせいか、いまでも私の裡《うち》にくっきりと――それだけ一層実在の人物から遠ざかりながら――蘇《よみがえ》ってくるのである。震災で何もかも焼いてしまったそれらの写真には、大概、椅子に腰かけた母と、その椅子の背にちょっと手を
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