。ただ自分の兵児帯《へこおび》にぶらさげたその迷子札をしきりに引っ張っておばあさんに教えながら……
そんな仲好しのおばあさんが居なくなって、茶の間で忙しそうにしている母にうるさくまつわりついては一人でぐずぐず言っているような時など、
「坊や、一しょに散歩に行こう。」と父が言ってくれた。
「あんまり遠くへはいらっしゃらないで。」母はいつも心配そうに言うのだった。
私は父と出かけることも好きだった。しかし、父は先《ま》ず、曳舟通りなんぞにある護謨《ゴム》会社や石鹸工場のなかへ私を連れてはいり、しばらく用談をしている間、私を事務所の入口に一人で待たせておいた。その間、私はすぐ目の前の工場の中できいきいと今にも歯の浮きそうな位|軋《きし》っている機械の音だの、汗みどろになって大きな荷を運んでいる人々だの、或《ある》事務所の入口近くにいつも出来ている水溜《みずたま》りの中に石油が虹《にじ》のようにぎらぎら光っているのなどを、いかにも不安そうに、じっと何か怺《こら》えている様子で、見守っていなければならなかった。
それから父は私の手をひいて、曳舟通りをぶらぶらしながら、その頃出来たばかりの業
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