きりと残っている。――或る晩、母が私を背中におぶって、土手の上に出た。そこには人々が集って、空を眺《なが》めていた。母が言った。
「ほら、花火だよ、綺麗《きれい》だねえ……」みんなの眺めている空の一角に、ときどき目のさめるような美しい光が蜘蛛手《くもで》にぱあっと弾《はじ》けては、又ぱあっと消えてゆくのを見ながら、私はわけも分からずに母の腕のなかで小躍《こおど》りしていた。……
それと同じ時だったのか、それとも又、別の時だったのか、どうしても私には分からない。が、それと同じような人込みの中で、私は同じように母の背中におぶさっていた。私はしかしこんどは何かに脅かされてでもいるように泣きじゃくっていた。私達だけが、向うから流れてくる人波に抗《さか》らって、反対の方へ行こうとしていた。ときどき私達を脅かしているものの方へ押し戻されそうになりながら。そしてその夢の中のようなもどかしさが私を一層泣きじゃくらせているように見えた。――それは自家が火事になって、母が私を背負って、着のみ着のままで逃げてゆく途中であったのだ。……
その当時には、まだその土手下のあたりには茅葺屋根《かやぶきやね》の家
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