、教室から出て行った。お竜ちゃんは他の生徒たちの手前、最後まで私を知らない風に押し通してしまった。そのため、彼女の貸してくれた使い古しの短かい鉛筆は、そのまま私の手に残された。
エピロオグ
私は、自分の最初の幼時を過ごした、一本の無花果《いちじく》の木のあった、昔の家を、洪水のために立退《たちの》いてしまってから、その後、ついぞ一ぺんも行って見たことがなかった。
私は、いま、この幼年時代について思い出すがままに書きちらした帳面を一先《ひとま》ず閉じるために、私がもう十二三になってから、本当に思い設けずに、その昔の小さな家を偶然見ることになった一つの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話《そうわ》を此処《ここ》に付け加えておきたい。
その頃私たちの同級生に、緒方《おがた》という、母親のいない少年がいた。級中で一番体が大きかったが、また一番成績の悪い少年だった。学校が終ると、いつも数名連れ立って帰ってくる私達に、ときどきその緒方という少年は何処《どこ》までも一しょにくっついてきて、自分の家へは帰ろうともせずに、夕方遅くまで私達と石蹴《いしけ》りやベイごま[#「ベイごま」に傍点]などをして遊んでいた。相当腕力も強かったので、彼を自分たちの仲間にしておこうとして、私達は何かと彼の機嫌《きげん》をとるようにしていた。それにまた、そういうベイなどの遊びにかけては彼は誰よりも上手だったのだ。――或る日、私は横浜から父の買ってきてくれた立派なナイフをもっているところをその緒方に見つかった。緒方はそれをいかにも欲しそうにし、しまいに、彼の持っているベイ全部と交換してくれと言い出した。全部でなくてもいい、二つか三つでいい、と私は返事をした。そんな分《ぶ》の悪い交換に私が同意したのは、腕力の強い緒方を怖《おそ》れたばかりではなかった。私の裡《うち》には何かそういう彼をひそかに憐憫《れんびん》するような気もちもいくらかはあったのだ。
それは冬の日だった。その日にとうとう約束を果たすことにし、私は自分で好きなベイを選ぶことになって、はじめて緒方の家に連れて行かれた。私はなんの期待もなしに、黙って彼についていった。しかし、彼が或る大きな溝《みぞ》を越えて、私を連れ込んだ横丁は、ことによるとその奥で私が最初の幼時を過ごした家のある横丁
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