れたのは、そのお竜ちゃんだったのである。
 お竜ちゃんは、しかし、私を空気かなんぞのように見ながら、澄まして、寧《むし》ろつんとしたような顔をして、私の隣りに坐った。私は心臓をどきどきさせながら、一人でどうしてよいか分からず、机の蓋《ふた》を開けたり閉めたりしていた。
 それは私の得意な算術の時間だった。どんなに上《うわ》ずったような気もちの中でも、私は与えられる間題はそばから簡単に解いていた。そういう私とは反対に、お竜ちゃんには計算がちっとも出来ないらしかった。そうして帳面の上に、小さな、いじけたような数字を、いかにも自信なさそうに書き並べているのを、私はときどきちらっと横目で見ていた。しかし、お竜ちゃんは、大きな、無恰好《ぶかっこう》な数字が一めんに躍《おど》っているような私の帳面の方は偸見《ぬすみみ》さえもしようとはしなかった。
 突然、私は鉛筆の心《しん》を折った。他の鉛筆もみんな心が折れたり先きがなくなっているので、私は小刀でその鉛筆をけずり出した。しかしいそげばいそぐほど、私は下手糞《へたくそ》になって、それをけずり上げない先きに折ってしまった。
 お竜ちゃんは、そんな私をも見ているのだか見ていないのだか分からない位にしていたが、そのとき彼女の千代紙を張った鉛筆箱をあけるなり、誰にも気づかれないような素ばしっこさで、その中の短かい一本を私の方にそっと押しやった。
 私も私で、黙ってその鉛筆を受取った。その鉛筆は、よくまあこんなに短かくなるまで、こんなに細くけずれたものだと思ったほど、短かくしかも尖《とが》っていた。私はそれがいかにもお竜ちゃんらしい気がした。私はすこし顔を赤らめながら、そんな先きの尖った短かい鉛筆で、いまにもそれを折りはしないかと思って、こわごわ数字を並べているうちに、だんだん自分の描いている数字までが何処かお竜ちゃんの数字みたいに小さな、顫《ふる》えているような数字になりだしているのを認めた。……
 やっと授業が終ったとき、私は「有難う」ともいわずに、その鉛筆をそっとお竜ちゃんの方へ返しかけた。しかし、その鉛筆は私の置き方が悪かったので、すぐころころと私の方へころがって来てしまった。――そのときは、みんなはもう先生に礼をするために起立し出していた。私もその鉛筆を握ったまま立ち上がった。礼がすむと、女の生徒たちは急にがやがや騒ぎ出しながら
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