ういうところからそれが来るかは、勿論、私は知りようもなかった。
 その頃、私はよく両親に伴われて、すぐ川向うの、浅草公園へ行った。そうして寄席《よせ》へ連れて行かれたり、活動写真を見て来たりした。又、おばあさんとだけやらされるときもあったが、そんなときには私はいつも球乗《たまの》りや花屋敷などへ彼女を引っぱって行った。(それらの事はまた他の機会にも書けるだろう。――)しかし一番、母だけに連れられて行くことが多かったが、そういう折にはいつも観音《かんのん》様とその裏の六地蔵様とにお詣《まい》りするだけで、帰りには大抵|並木町《なみきちょう》にある母方のおばさん(其処《そこ》のおじさんはきん朝さんという噺《はな》し家《か》だった。……)の家に寄ったり、それからそのおなじ裏通りの、もう少し厩橋《うまやばし》よりにある、或る小さな煙草屋の前まで私を連れて行った。その頃その煙草屋の二階に、皆がおよんちゃんといっている、一番小さなおばさんが一人で間借りをしていた。母は、私をすこし離れたところに待たせて、決して上へはあがらずに、そのおよんちゃんを外へ呼び出して、暫《しばら》く夕やみの中で何か立ち話をし合っていた。およんちゃんはときどき私の方を気にして見たりしていた。何か、泣いているらしいときもあった。私は往来に立ったまま、そっちの方はなるべく見ないようにして、そんな夕がたの町裏の見なれない人の往き来を熱心に見ていた。
 そんな夕方の帰りなんぞには、私はいつもよりか大人しく母の手に引かれて、絵双紙屋の前を通っても何んにもねだらずに、黙って歩いていた。夕方遅くなったりなんぞすると、母は吾妻橋《あずまばし》の袂《たもと》から俥《くるま》をやとって、大川を渡って帰った。そんなとき、私は母の膝《ひざ》の上に乗せられるのが好きだった。……
 母がまだ父と一緒にならないうちに、向島《むこうじま》の土手下に私とおばあさんだけと暮らしていた時分、小さな煙草屋をやっていたと云う話を、私が誰からきくともなしに知り出していたのも、丁度その頃だった。そのせいか、そんな裏通りなんぞにある、みすぼらしい煙草屋の二階にその小さなおばさんが一人で間借りしているのが、何か、子供の私にも悲しくて悲しくてならなかった。(が、今日の私が、自分の幼年時代の思い出のなかに見出《みいだ》す幸福という幸福のすべてが、いかにそれら
前へ 次へ
全41ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング