、もう溜《た》まらなくなったように母の腕の中にとびこんで、その胸に私の顔を隠した。
「それはお母ちゃんの方が好きね?」とその母にまでそう揶揄《からか》うようにいわれると、私は急に怒ったようにはげしく首を横にふるのだった。しかしその顔を一そう強く母の何処まで広いか分からないような胸に押しつけながら……
 そして私はしばらくそうやっている裡に、いつかすやすやと寝入ってしまうのだった。

 そうやって一度寝入ってしまうと、もうめったに目をさましたことがなかったが、ただ五六遍だけ、私は夜なかにぽっかりと目をあけた。気がついてみると、まっ暗な中に私はただ一人きりで寝かされている。そのうちにあかりの洩《も》れてくる次ぎの茶の間から、父と母とが何かしきりに言い合っているらしいのが次第に耳にはいってくる。何をいさかっているのか分からないが、ときおり母が溜まりかねたように声を鋭くする。父はそれを何かに笑いまぎらわせようとしている。私はゆめうつつにそれを耳に入れながら、最初は母と一しょになって訣《わけ》もわからず胸を一ぱいにしている。が、そのいさかいがだんだん昂《こう》じて、しまいにはそれまで皆の目を覚《さ》まさせまいとして互に小声で言い合っていたらしいのが、つい我を忘れたように声を高くしてくる。……突然、私はまっ暗ななかで一人でしくしくと泣き出す。父に訴えるのでも、母のために一緒に泣くのでもない、ただもうそれより他《ほか》にしようがなくって、泣くのを我慢しいしい泣いている。そのうちにやっと母がそれに気づいて、私をあやしに来てくれる。酒臭い父もそのあとから私のそばにやってくる。そして、父はよく枕《まくら》もとでお鮨《すし》の折などをひらきながら、「そんなことをするの、お止《よ》しなさいてば。……」と母が止めるのもきかずに、機嫌《きげん》よさそうに私の口のなかへ、海苔巻《のりまき》なんぞを無理に詰めこむのだった。そうすると私は反って泣いていたのを見つかったことをてれ臭そうにして、すぐもう半ば眠ったふりをしながら、でも口だけは仕方なしにいつまでももぐもぐやっていた。……

 私の知った最初の悲しみであった、そういう父母のいさかいが、どうかするとその翌朝になってもまだ続いていることがあった。
 そういうときなど、私はすぐ胸を一ぱいにして、彼等のそばを離れ、こっそりと庭へ抜け出していった。そし
前へ 次へ
全41ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング