えに恐怖しだす。しかしそういうような愛人や両親や自分自身から離れている不安は、その不安に慣れるにしたがって、彼自身もだんだん平気になって行くのではないかと考えはじめた刹那《せつな》、それは一層大きな恐怖に変わる。何故《なぜ》なら、習慣の錬金術《れんきんじゅつ》がこうして苦しんでいるものを完全な無関心者《ストレンジャア》(その者にはそんな苦しみの原因が全く莫迦《ばか》げたものに思われるのだ)に変えてしまい、そうしてその時こそは彼の愛情の対象が消えるのみならず、その愛情そのものさえ消えてしまうかも知れないからだ……
 ――ふとそんな一節を読みあてた頁《ページ》から私は目をそらして、私にはまだ慣れきっていない自分の部屋を眺《なが》めまわしたのち、それから目をつぶって、今朝《けさ》のちょっと無気味だった眼覚《めざ》めを心のうちにまざまざと蘇《よみがえ》らせた。……

 翌朝、私が目をさましたのは昨日よりもまたずっと遅いらしかった。例の支那人《しなじん》のボオイを呼んで、朝飯はまだ食わせてくれるかと聞いたら、すこし怒ったような顔つきをして、朝食を食べるならもう少し早く起きてほしい、もう十二時だ、
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