になるかならないうちに、其処を引き上げて行ってしまいました。……
「九月になって間もない或る朝、丁度こちらの三枝さんの奥さんが此処《ここ》のヴェランダに出て新聞を見ていますと、きたない風呂敷《ふろしき》包を肩にぶらさげ、蝙蝠傘《こうもりがさ》を手にした婆さんがきょときょとしながら庭先へはいって来るので、また物売りかと思って見ると、それはお向いのお婆さんでした。とうとう辛抱しきれずに爺やと別れて、自分だけはこれから横川《よこがわ》の在《ざい》まで自分の先夫の娘を頼《たよ》って行くのだと言います。こちらの三枝さんの奥さんは、日向さんの奥さんとは昔馴染《むかしなじみ》でしたので、婆さんは出しなにちょっといとま乞《ごい》に立寄ったのでした。
「三枝さんはそれまでのいろいろの事情をよく御存じのお方でしたので、その婆さんのことも気の毒に思われて、『あなたはとうとう行っておしまいになるんですか。もうすこしじっとしていらっしゃればいいのに……』といたわるように言われました。
「そう言われると、婆さんはつい日頃の愚痴が出て、いまさらのように日向家の仕打ちから、自分から見れば爺さんは呆《あき》れ返るほどの
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