さんが爺やに何か言いつけながらその別荘のまわりを一まわりしている間、私達は若葉の歯朶《しだ》で縁どられたヴェランダに腰を下ろして、真向かいのわが家[#「わが家」に傍点]の方を見やっていた。やがて無口なおとなしい爺やが鍵束《かぎたば》をじゃらつかせながら帰って行き、不二男さんだけが私達の傍に寄って来るのを見ると、
「なるほどあそこに豆棚の入口があったんじゃ、こっちへ真ん向きだね」と私は口をきいた。
「どうもあのままですと、一々出はいりするたんびに、こちらと顔を合わせなければならないので、お互にお厭《いや》でしょうと思って、ああ入口を変えてみたんですが。……しかし、もともとウインさんのいらしった頃は、こちらのヴェランダが向うを向いていましてね……」と不二男さんは今しがた爺やの出て行った南側を指さした。
「そうだったね、散歩のついでによくこの前を通りかかると、感じのいいおじいさんとおばあさんがいつも二人でヴェランダに出て本を読み合っていたっけなあ。」私も合槌《あいづち》を打った。「何しろここも古い別荘だ。」
「この村ではこの辺が一番最初に別荘地としてひらけたものでしてね、その時分は建てた順に別荘番号をつけていましたが、ここのウインさんの家なんぞは何んでも四号か五号でした。――三枝《さいぐさ》さんの奥さんがこの家をお買いになるといわれたとき、あんまり古い家なのでどうかと思いましたが、すっかりこうして手を入れたら、見ちがえる程になってしまいましてね。前はひどい紅殻《べにがら》塗りの小屋でしたが……」
 私はこの村を知ってからもう十年以上になるので、そんな一昔前に流行《はや》っていた紅殻塗りの小屋のことも、その頃の古い住人達のことも少しは覚えていたが、おととし結婚後はじめてこの村に来るようになった妻の方は全然その頃のことを知らないので、そんな不二男さんの話にも珍らしそうに耳を借していた。
「日向《ひゅうが》さんのところはこの頃ずっと来ないの?」
「おととしひさしぶりで奥さんがお嬢さんをお連れになって、ひと夏お見えになっていました。――が、その冬に爺やが死んで、そのときは甥《おい》ごさんが見えられたっきり、それからはまだお見えになりません。」
「その死んだ爺やというのは僕も知っている爺やだろうけれど、おっかない爺やだったね。君んちの爺やとはずい分仲が悪かったんじゃあない。何んでも一度、あっちの爺やの畑の南瓜《かぼちゃ》を君んちの爺やが何んとかしたとか云って、どういう行きがかりだったか、たいへん酔払って室生さんちの門の前まで来て、中へはいらずにいつまでも悪態をついていた事もあったね。」
「そんな事もありましたっけね。」不二男さんは少し苦笑いした。それから急に真顔になって、
「私なんぞも、これまであの爺やは飲んだくれで、因業な奴だとおもっておりましたけれど、死んでからいろいろ話を聞いてみると、かわいそうな爺やでした。……」
 そう前置きをして、不二男さんも私達の隣りに腰を下ろしながら、何か思い出ふかそうに話し出した。

        三

「あなたなぞは随分お古いから御存知でしょうが、この裏の通りにあったあの水車ですね。――昔はあの裏通りのことを|水車の道《ウォタアウィル・レエン》なんぞと外人達がいっていましたが――あの水車というのは、元来|日向《ひゅうが》さんの御主人が拵《こしら》えさせて、自分の別荘の方へ山水を引かせていたものなのですが、まあこの辺では昔からあれが唯一の水車でして、あの林の入口でごとんごとんと音を立てながら日ねもす廻っていた長閑《のどか》な様子は何んとなく気持のいいものでした。ところが、その日向さんの御主人が七八年前に急にお亡《な》くなりになった。著名な政治家でしたけれども、これがまたこの上もなく廉潔な方でしたので、殆《ほとん》ど財産らしいものは何んにもお残しにならなかったものですから、たいへん奥さんたちはお困りになられたようで、その別荘もすぐ売りに出されました。最初は一万円位でというお話でした。それは地所も千二三百坪からありましたし、場所も申分はないのですが、何しろ家は古いし、景気も悪かった時分ですから、なかなか買手がつきませんでね。――それに奥さんも割合に暢気《のんき》なお方なので、いくらお困りになられていてもそれで買手が無ければしようがないといった風で、その話はそのままになすって、それからまた引続き二三年の間夏になると唯一人のお嬢さんをお連れになってはいらしっておりました。お嬢さんももう十七八におなりになっていましたが、テニスがお好きで、昔と変らずに同じ年頃のお友達を集めては、庭の一隅にあったテニスコオトで愉快そうに球《たま》を打ち合っていらっしゃるのが、往来からもダリヤやフランス菊なぞの咲き乱れた間に垣間《かいま》
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