顔を上げながら、
「ああ、もう啼かなくなった」と何気なさそうにいった。なんでもないことだのに、私はそれに気がつくと何かしらはっとした。
深沢さんは、又ひとりでスケッチブックをとり出して、縁先に腰かけたまま、その花さいた朴の木を見上げ見上げ写生していた。
二
午後から、深沢さんが一人で雑木林に写生に行っている間、私は妻と一緒に宿の主《あるじ》の不二男さんの案内で、今年借りることにした近所の林の中にある家を見に出掛けた。
その小さな家は昔から私も知っていた。夏になると入口の棚《たな》に赤だの白だのの豆の花が咲いて、その下を潜《くぐ》りながら、毎年違った人達――或《ある》年には外人の一家もいたことがある――が出たり入ったりしているのがちょっと好もしい眺《なが》めだった。それは外にも大きな別荘を持っていた日向《ひゅうが》さんという未亡人の持物で、冬の間別荘番に住まわせるために建ててあったのだが、夏場だけ人に借していたのである。
実は去年も私達はそれを借りかけて、矢っ張宿の主《あるじ》の不二男さんと一緒にそれを見に行ったことがあった。
「夏になると、これに豆の花が咲いてなかなか好くなるよ。」そのとき私は妻にそんな説明をしながらその家の入口を指し示した。
「『道のべは人の家に入り豆の花』――これは犀星《さいせい》先生の句だがね。ちょっとそんな感じだ。」
が、はじめてその家のなかへはいって見て、案外方々が傷《いた》んでいるのに驚いた。その上、家のすぐ裏のわずかな空地にもってきて、外からは見えなかったが、納屋《なや》のようなものが立っていて、家全体がいかにも暗ぼったい感じがするので、「あれは何なの?」ときいてみると、「それはいずれ取壊《とりこわ》そうと思っていますが……」と不二男さんは言って、その小屋には日向さんの爺《じい》やがしばらく仮住みしていたが、その前年の冬にそこで死んで行ったことを包まずに話した。
「ここの家、傷んでいるだけ位ならいいんだけれど、あんなものがあっては」……妻はそう私にそっと耳打ちしたが、それには私も同感だった。若しかすると昔ちょいちょい見かけたことのあるその死んだ爺やの顔――目つきのこわい、因業《いんごう》そうな爺やの顔がふいとその瞬間鮮かに浮んで来ただけ、その閉された小屋は妻がそれをうす気味悪がった以上に、私自身の心に暗い影を与えているにちがいなかった。
そんな事で、去年はその家を借りるのを見あわせ、もう一方の、同じ林の中にあった、もっと小さな、もっときたない家で間に合わせた。
が、今年はその爺やの小屋も取壊したし、いろいろ手を入れたので幾らかさっぱりしたから、どうですかあれをお借りになっては、と不二男さんもすすめるので、私は性懲りもなくもう一遍その豆の花の咲く小家を借りようかと思い立って、再びそれを見に来たわけだった。――
その小家が急に若葉の中から私達に見え出して来たとき、何んだかすっかり様子が違っているのですぐにはそれと気づかなかった位であった。おやと思って、私はおもわずその場に足を駐《と》めた。
「あ、あの豆の棚をとってしまったの?」私はひどくびっくりしたように叫んだ。
「ええ、あれはあのままですと、どうもこちらの三枝《さいぐさ》さんのお家へあまり真向《まむき》になるので……」不二男さんはいかにも何んでもなさそうに説明した。「ちょっと斜めに道をつけてみましたが……」
「それは惜しいことをしちゃったなあ。」私はこんどはがっかりしたように言った。
そうして不二男さんと妻とがずんずんその新しい小径《こみち》から中へはいって行ってしまってからも、私はなお暫《しばら》くその入口に一人残ったまま、お隣りの三枝さんの別荘の、数本の松の木にちょっと一もと芒《すすき》をあしらっただけの、生籬《いけがき》もなんにもない、瀟洒《しょうしゃ》な庭を少し恨めしそうに見やりながら、いつまでも秦皮《とねりこ》のステッキで砂を掘じっていた。
まあそれも仕方がなかろうと思って、漸っとみんなの跡からはいって行って見ると、もう先きに不二男さんのところに古くからいる爺やが来ていて雨戸などをすっかり明けておいてくれた。裏の小屋も跡かたもなく取払われ、家のなかは去年から見ると見ちがえるように小ざっぱりとなっていた。大体、それを借りる事にし、そうしていろいろ足りない台所道具なぞを調べてから、みんなで家を締めて出て来たときは、まあ豆の棚ぐらいはどうでも好いやという位には私も満足していた。
「ちょっと三枝《さいぐさ》さんのヴェランダをお借りして、一休みして参りましょう。」
そこも管理している不二男さんがそう言いながら、先きに立ってずんずん松の木の庭のなかへはいって行くので、私達も構わずについて行った。そうして不二男
前へ
次へ
全9ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング