うのもう大かた花の無くなった豆棚から日向さんの奥さんが不意に姿を現わし、それを見ると、何か気がかりな様子でこちらへ近づいて来て、
『もうお引き上げなの?』と尋ねました。
『いいえ、まだもうすこし居たいと思っているのだけれど……』そう三枝さんは答えました。
『いまのうちにぽつぽつと片しておかないと、雨でも降り出したらと思うものだから……』
『そうね。私の方もそろそろ帰ってやらないと圭子《けいこ》も困っているらしいの』と日向さんも言って、それから急に声を低くして、「だけど、実は困ってしまっているのよ。うちの爺やがなんだか体の具合が悪いようなの。この頃は胸が痛いって、お粥《かゆ》ばかり食べているのよ。熱もあるようなので、寝ていろって幾ら言っても言うことをきかないで、一日じゅう何かしらやっていては、夜など私の知らない間にこっそりとお酒なんぞ飲んでいるんでしょう。あんな事をしていて、どっと寝つきでもしたら、どうしたらいいのかしら。まあ私でもこちらにいる間は、何とか世話をしてやれるけれど、そう私だっていつまでも居られやしないのだから……』
「三枝さんはそういう話を聞きながらも、見たところふだんと変らずに爺やが何かと働いているのを見ていますので、そう心配するほどのことはないのだろうと相手の気休めになるような事ばかり言うと、日向さんもいつかそんな気になって行かれたものと見えます。
「九月も末近くなると、先《ま》ず三枝さんがお引き上げになり、程経《ほどへ》て日向さんもとうとう爺や一人をお残しになって東京へお帰りになられました。
「十月、十一月と過ぎましたが、あとに残った爺やはどうしているのか、私どもにはさっぱり姿を見せないようになりました。うちの爺やとは仲違《なかたがい》をしていますので、爺やにきいても何も知らないようだし、少し体の具合が悪いようなことも奥さんが帰りがけにちょっと話しておられたので、もしやと、気にはなっていました。前から爺や同志で顔を合わせたがらないようなので、自然三枝さんの別荘の見まわりだけは私が自分でするようにしていましたが、秋も深くなってその時分になると、もうまわりの木々がすっかり落葉し尽し、木々の枝を透いてあちこちの釘《くぎ》づけになった別荘が露《あら》わに見えて来ますが、日向さんのところはいつも締まっていて、ひっそりとしています。
「爺やはこの頃は自分で建て
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