である。
私はその隣村(追分《おいわけ》)で二年ばかり続けて、一人っきりで冬を過したことがあるが、ときどきどうにも為様《しよう》のないような気もちになると、よく雪なんぞのなかを汽車に乗って、軽井沢まで来た。軽井沢も冬じゅう人気《ひとけ》のないことは同様だが、それでも、いつも二三人は外人の患者のいるらしいサナトリウムのあたりまで来ると、何となく人気が漂っていて、万物|蕭条《しょうじょう》とした中に暖炉の烟《けむり》らしいものの立ち昇っているのなんぞを遠くから見ただけでも、何か心のなぐさまるのを感じた。そんな村のあちこちを、道傍《みちばた》から雉子《きじ》などを何度も飛び立たせながら、抜け道をしいしい、淋しいメェン・ストリィトまで出て、それからこんどは水車の道にはいると、私はいつもながいこと聖パウロ教会の前に佇《たたず》んで、その美しい尖塔《せんとう》を眺め、見入り、そして自分の心の充たされてくるまでそれに愛撫せられていた……
そういう時なんぞ、私は屡々《しばしば》、その頃愛読していたモオリアックの「焔《ほのお》の流れ」という小説の結末に出てくるそのかわいそうな女主人公の住んでいる、フ
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