方を私もふりむいて見ると、ヴェランダの壁の上の方の、誰の手も届きそうもないところに、なるほど彼らしい手跡で、
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〔Wenn ich wa:re ein Vogel !〕
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 と、青い鉛筆で楽書のしてあるのに私はそのとき漸《やっ》と気がついた。

      *

 私達が結婚祝いに立原から貰ったクロア・ド・ボア教会の少年達の歌やドビュッシイの歌のレコオドをはじめて聴いたのは、その翌年の春さきに、なんだかまるで夢みたいに彼が死んでいってしまった後からだった。私達はそのレコオドを友人の家に携えていって、それをはじめて聴いたのである。
 それから、その夏(去年)軽井沢へ往ったときは漸く宿望の蓄音機をもっていけたので、私の好きなショパンの「前奏曲」やセザアル・フランクの「ソナタ」なんぞの間にときどきその二枚の小さなレコオドをかけては、とうとうこれがあいつの形見になってしまったのかと思うようになった。私はその二つの曲の中では、ドビュッシイの近代的な歌よりも、寧《むし》ろイタリアの古拙な聖歌の方を好んだ。それらのゴブラン織のような合唱の中を、風のように去来する可憐なボオイ・ソプラノはなんとも云えず美しいものだった。
 その夏、軽井沢では、急に切迫しだしたように見える欧羅巴《ヨオロッパ》の危機のために、こんな山中に避暑に来ている外人たちの上にも何か只ならぬ気配が感ぜられ出していた。日曜日の弥撒《ミサ》に、ドイツ人もフランス人も、イタリイ人も、それからまたポオランド人、スペイン人などまで一しょくたに集まってくる、旧教の聖パウロ教会なんぞは、そんな勤行《ごんぎょう》をしている間、その前をちょっと素通りしただけでも、冬なんぞの閑寂《かんじゃく》さとは打って変って、何か呼吸《いき》づまりそうなまでに緊張した思いのされる程だった。前年の夏あたりは、屡々《しばしば》、その教会の中から聖母を讃《たた》える甘美な男女の合唱が洩《も》れてきて、それが通行人の足を思わず立ち止らせたりしたものだったが、今年の夏はどういうものか、低いオルガンの音のほかには、聖楽らしいものは何にも聞えて来ないのだった。
 この頃朝の散歩のときなど、その教会の前を通りかかる度毎に、私はその中があんまり物静かで、しかも絶えず何ものかの囁《ささや》きに充たされているようなので、いつか聞覚えてしまったヴィットリアの「アヴェ・マリア」の一節などを、ふいとそれがさもその教会の中から聞えてきつつあるかのように自分の裡《うち》に蘇《よみがえ》らせたりするのだった……

      *

 八月の末になってから、その夏じゅう追分で暮していた津村信夫君が、きのう追分に来たという神保《じんぼ》光太郎君と連れ立って、他に二三人の学生同伴で、日曜日の朝、ひょっくり軽井沢に現われ、その教会の弥撒《ミサ》に参列しないかと私を誘いに来てくれたので、私も一しょについて行った。冬、一度その教会の人けのない弥撒に行ったことがあるきりで、夏の正式の弥撒はまだ私は全然知らなかった。 
 みんなで教会の前まで行くと、既に弥撒ははじまっていて、その柵《さく》のそとには伊太利《イタリイ》大使館や諾威《ノルウェー》公使館の立派な自動車などが横づけになり、又、柵のなかには何台となく自転車が立てかけられていた。私達はその柵の中へはいろうとしかけながら、誰からともなしに少し躊躇《ためら》い出していた。そうして三人でちょっと顔を見合せて、困ったような薄笑いをうかべた。丁度、そんな時だった、私達の背後からベルを鳴らしながら、二人の金髪の少女が自転車でついと私達を追い越すやいなや、柵の入口のところへめいめいの自転車を乗り捨てて、二人ともお下げに結った髪の先をぴょんぴょん跳ねらしながら、いそいで教会の中へ姿を消した。
 私達はその姉妹らしい少女らの乗り捨てていった自転車の尻に、両方とも「ポオランド公使館」という鑑札のついているのを認めた。それは丁度、ドイツがポオランドに対して宣戦を布告した、その翌日だった。私達は立ち止ったまま、もう一度顔を見合せた。
 私達は、おそらくきょうこの教会に集まってきている人達は、それぞれの祖国の危急をおもって悲痛な心を抱いているものばかりであろうのに、そんな中へ心なしにも数人でどやどやとはいって行くのが少々気がひけて来たのだった。が、それだけにまた一層、いましがたそういう人達の中に雑《まじ》っていった二人のポオランドの少女が私達の心をいたく惹《ひ》いた。私達はこんども誰からともなく思い切ったように教会のなかへはいって行った。そうしてめいめい他の人達のように十字は切らないで、一人ずつ、内陣の方へ向って丁寧に頭を下げながら、まだすこし空いていた、うしろの方の藁椅子《わらいす
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