イモンド夫人がみずから制作したものだという事を私の教わったのも、そのときの事だった。そして別れぎわになってから、そのHさんがこう言ったのである。
「……この御堂が本当に好きですので、こうして雪の深いなかに一人でそのお守りをしているのもなかなか愉しい気もちがいたします。……」

      *

「あなたが自分のまわりに孤独をおいた日々はどんなに美しかったか、僕はそれを羨《うらや》むことでいまを築いているといったっていいくらいです……」と、そんな事を若い詩人の立原道造《たちはらみちぞう》が盛岡への一人旅から私達のところに書いてよこしたのは、彼が亡くなる前年(一九三八年)の秋だった。――そのときはもう私はそのような孤独ではなく、その春さりげなく結婚をして、しかしその年もやはり軽井沢の山中で秋深くなるまで暮しつづけていた。が、今年はどうも私の身体が変調なので、そろそろこんな山暮しを切り上げようかと考えていた矢先だった。――立原も立原で、その夏まえからだいぶ健康を害して、一年ほど前から勤め出していた建築事務所の方もとかく休みがちらしかった。そうしてなかば静養を口実に、好きな旅にばかり出ているようだったが、夏のさなかの或る日なんぞ、新しく出来た愛人を携えて、漂然《ひょうぜん》と軽井沢に立ち現われたりした。そう云えば、あのときなんぞ彼の弱っていた身体には、私達の山の家まで昇ってくる道がよほど応《こた》えたと見え、最初は口もろくろく利けずに、三十分ばかりヴェランダに横になったきりでいた、息苦しそうな彼の姿がいまでも目に浮ぶ。――私と妻とはときどきそんな立原がさまざまな旅先から送ってよこす愉しそうな絵端書などを受取る度毎に、何かと彼の噂《うわさ》をしあいながら、結婚までしようと思いつめている可憐《かれん》な愛人がせっかく出来たのに、その愛人をとおく東京に残して、そうやって一人で旅をつづけているなんて、いかにも立原らしいやり方だなぞと話し合っていた。――「恋しつつ、しかも恋人から別離して、それに身を震わせつつ堪える」ことを既に決意している、リルケイアンとしての彼の真面目《しんめんもく》をそこに私は好んで見ようとしていたのであった。
 その立原は、しかし、その春の末私達が結婚しようとしていたときは、まだなかなか元気で、病後の私のために何かと一人で面倒を見てくれたのだった。そうして結婚するや否や、誰にも知らさずに、すぐ軽井沢に立ってきた私達に、次ぎのような手紙を添えて、私達にささやかな贈り物をしてくれた。――「御結婚のおよろこびを申し上げます。お祝いのしるしにフランスの『木の十字架』教会の少年たちのうたった聖歌をお贈りいたします。美しい村でおくらしになる日、森のなかの草舎でこの歌がきかれる初夏、花々のことなど、一切のきょうのあわれに美しい僕の夢想を花束に編んで、それに添えた心持でお贈りいたします。それからもうひとつのは、去年の秋の奇妙な出来事が僕にえらばせた歌なのですが、これはお祝いのしるしというのではなしに、ただ、あの不意に家のなくなってしまった日のかたみのために、高原の村ぐらしのなかにお持ちになっていただきたかったのでございます。沢山の幸福とよろこびと潤沢な日日とを恵まれますように。道造」――その贈り物というのは二枚のレコオドで、その一つはフランス旧教会ラ・クロア・ド・ボア教会小聖歌隊の合唱したヴィットリアの「アヴェ・マリア」とパレストリイナの「贖主《あがないぬし》の聖母よ」。もう一つはクロオド・パスカルという少年歌手の独唱したドビュッシイの晩年の歌曲「もう家もない子等のクリスマス」。――文中の去年の秋の出来事というのは、私や立原なんぞが一しょに暮していた追分の脇本陣《わきほんじん》(油屋)が火事になって二人とも着のみ着のままに焼け出された出来事のことである。――私達はその贈り物をよろこんで受けて、わざわざ山の家まで携えてきたが、小さなポオタブル位はなんとか手に入れて持ってくる筈だったのがうまく行かなくて、只、その贈り物は机の上に飾っておいた。とうとうその山の家ではそれを一度も聴く機会が得られなかった。……
 私達の山の家へは、五月の半ば頃、立原はその新しい愛人とはじめての旅行を軽井沢に試みたときに既に訪れたことがあったのだそうだ。丁度、私の父が急病になって私達が東京に帰っていた間のことらしい。立原たちは、私達が留守でも構わずに、その山の家のヴェランダで三時間ばかり昼寝をしたり遊んだりしていたのだなどと、夏、又二人でやって来たとき私達にはじめて打ち明けて言うのだった。
「ほら、あそこにそのとき僕が楽書《らくがき》をした跡がある……」
 そう云って、物憂そうに椅子に首をもたせたまま、疲れた一羽の鳥のような、大きなぎょろっとした目で彼が見上げている
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