である。
私はその隣村(追分《おいわけ》)で二年ばかり続けて、一人っきりで冬を過したことがあるが、ときどきどうにも為様《しよう》のないような気もちになると、よく雪なんぞのなかを汽車に乗って、軽井沢まで来た。軽井沢も冬じゅう人気《ひとけ》のないことは同様だが、それでも、いつも二三人は外人の患者のいるらしいサナトリウムのあたりまで来ると、何となく人気が漂っていて、万物|蕭条《しょうじょう》とした中に暖炉の烟《けむり》らしいものの立ち昇っているのなんぞを遠くから見ただけでも、何か心のなぐさまるのを感じた。そんな村のあちこちを、道傍《みちばた》から雉子《きじ》などを何度も飛び立たせながら、抜け道をしいしい、淋しいメェン・ストリィトまで出て、それからこんどは水車の道にはいると、私はいつもながいこと聖パウロ教会の前に佇《たたず》んで、その美しい尖塔《せんとう》を眺め、見入り、そして自分の心の充たされてくるまでそれに愛撫せられていた……
そういう時なんぞ、私は屡々《しばしば》、その頃愛読していたモオリアックの「焔《ほのお》の流れ」という小説の結末に出てくるそのかわいそうな女主人公の住んでいる、フランスの或る静かな村の古い教会のことなぞを胸に泛《うか》べたりしていた。――以前その女の身を誤らせたことのある青年が巴里《ぱり》からはるばるとその村までその女に逢いに来る。彼はその若い女を偶然村の教会のなかに見出す。彼女は丁度聖体を拝受しようとしているところである。青年はそういう打って変ったような女の姿を見ると、もう彼女に話しかけようともせず、又自分を彼女に気づかせようともしない。彼は聖水を戴いて、虔《つつ》ましく十字を切り、そのまま教会を出ていってしまうのである。……
そういうモオリアック好みの小説の場面を、私は自分の目の前の空虚な教会の内側にいましも起りつつあるかのように想像を逞《たくま》しくしたりしながら、いつまでもうつけたように教会の木柵《もくさく》にもたれかかっているようなことさえあった。
そんな或る日の事(二月の末だった……)、私はひょっくり出先から戻ってきた其処《そこ》のHさんという管理人と二こと三こと口を利《き》き合い、そのまましばらく教会の側面の日あたりのいい石の上で、立ち話をしあっていた。丁度私達の傍らに立っている聖パウロの小さな、彩色した彫像は、彫刻の上手なレ
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