ほどぼんやりしてゐる自分自身を見出すことは、僕の悲しみに氣に入るのである。
時々、歩道に面した小さな酒場が僕を引つぱりこむ。煙りでうす暗くなつてゐるその中で、僕は僕のテイブルを煙草の灰や酒の汚點《しみ》できたなくする。そしてしまひにはその汚れたテイブルが、僕に、その晩中僕の影のよごしてゐた長い長い歩道を思ひ出させる。僕は非常な疲れを感じる。僕はそこを出ると、すぐタクシイに飛びこみ、それからベツドに飛びこむ。そして僕は石のやうに眠りの中に落ちて行くのである。
或夜、僕は群集の中を歩きながら、向うから來る一人の青年をぼんやりと見つめてゐた。するとその青年は僕の前に立止つた。それは僕の友達の一人だつた。僕は突然笑ひ出しながら彼の手を握つた。
「なんだ、君か」
「おれを忘れたのかい」
「ああ、すつかり忘れちやつた」
僕はわざと快活さうに言つた。しかし僕は、彼を見てゐながら、彼と氣づかなかつたことが、それほど僕のぼんやりしてゐることが、彼を悲しませてゐるらしいのを見逃さなかつた。
「どうして俺たちのところに來なかつたのだ」
「僕は誰にも會はなかつたのだ。誰にも會ひたくなかつたのだ」
「ふん……ぢや、槇のことも知らないな」
「知らないよ」
すると彼は一言も云はずに默つて歩き出した。僕は彼がこれから槇について話さうとしてゐることが、再び僕の心を引つくり返すにちがひないのを豫感した。しかし、僕は犬のやうに彼に從いて行つた。
「あの女は天使だつたのさ」
彼はその天使と云ふ言葉を輕蔑するやうに發音した。
「槇はあの女を連れてよく野球やシネマに出かけて行つたのだ。最初、あの女は槇の言葉で云ふと、とても蠱惑的《シヤルマン》だつたのださうだ。ところが、槇が一度婉曲に、女に一しよに寢る事を申込んだのだ。すると女が急に彼に對する態度を一變してしまつた。そしてそれからの女の冷淡さと言つたら、槇を死ぬやうに苦しませたほどだつた。一體あの女は、男の心を少しも知らないのか、それとも男を苦しませることが好きなのか、どつちだかわからない。あいつは生意氣なのか、馬鹿なのか、どつちかだ。――おい、ウイスキイ! 君は?」
「僕はいらないよ」僕は頭をふつた。僕はそれを他人の頭のやうに感じた。
「それから」僕の友人は續けた。「槇は突然何處かに行つてしまつたのだ。どうしたのかと思つてゐたら、昨日、ひよつくり歸つてきやがつた。一週間ばかり神戸へ行つてゐて、毎日バアを歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つては、あいつの膨脹した欲望をへとへとにさせてゐたんださうだ。もうすつかり腹の蟲が納まつたやうな顏をしてゐる。あいつは思つたより實際派《リアリスト》だな」
僕は僕の頭の中がだんだん蜜蜂のうなりで一ぱいになるのを感じながら、友人の話を默つて聞いてゐた。僕はその間、時々、友人の顏を見上げた。それは僕に、さつき群集の中でその顏を見つめながら、彼だと氣づかなかつたほどぼんやりしてゐた僕自身を思ひ出させ、それから僕をそれほどにしてゐた僕の苦痛の全部を思ひ出させた。
4
その數日前から、僕は少しも彼女の顏を思ひ出さないやうに、自分を慣らしてゐた。それが僕に彼女はもう無いものと信じさせてゐた。が、それは自分の部屋の亂雜に慣れてそれを少しも氣にしなくなり、多くの本の下積みになつてゐるパイプをもう無いものと信じてゐるやうなものであつた。その本を取りのける機會は、その下にパイプを發見させる。
そのやうにして、再び僕の前に現れた彼女は、その出現と同時に、彼女に對する僕の以前と少しも異らない愛を僕の中によみがへらせた。僕の理性はしかし、僕と彼女との間に、一度傷つけられた僕の自負心を、あらゆる苦痛の思ひ出を、堆積した。それにもかかはらず、それらのものを通して、一つの切ない感情が、彼女の本當に愛してゐるのはやはり僕だつたのではないかといふ疑ひが、僕の中に浸入して來るのである。それは愛の確實な徴候だ。そしてそれを認めることによつて、僕はどうしても、自分の病氣から離れられない病人の絶望した氣持を經驗した。
時間は苦痛を腐蝕させる。しかしそれを切斷しない。僕は寧ろ手術されることを欲した。その僕の性急さが、僕一人でカフエ・シヤノアルに彼女に會ひに行くといふ大膽な考へを僕に與へたのである。
僕は始めて入つた客のやうにカフエの中を見まはす。僕を見て珍らしさうに笑ひかける見知つたウエイトレスの顏のいくつかが、僕の探してゐるものから僕の眼を遮る。僕の眼はためらひながら漸つとそれらの間に彼女を見出す。彼女は入口に近いオオケストラ・ボツクスによりかかつてゐる。その不自然な姿勢は僕に、僕の入つて來たのを知りながら彼女はまだそれに氣づかない風をしてゐるのだと信じさせる。僕は手術される者が不安さうに外科醫の一つ一つの動作を見つめるやうに、彼女の方ばかりを見てゐる。
突然オオケストラが起る。彼女はそつとボツクスを離れる。そして僕を見ずに僕の方に何氣なささうに歩いてくる。そして僕から五六歩のところで、すこし顏を上げる。彼女の眼が僕の眼にぶつかる。すると彼女は急に微笑を浮べながら、そのまま歩きにくさうに、僕に近よつてくる。そして僕の前に默つて立止まる。僕も默つてゐる。默つてゐることしか出來ない。
手術の間の息苦しい沈默。
僕は彼女の手を見つめてゐるばかりだ。あまり強く見つめてゐるので、眼が疲れて來たせゐか、その手が急にふるへてゐるやうに見える。すると眩暈《めまひ》が僕の額を暗くし、混亂させ、それから漸く消えて行く。
「あら、煙草の灰が落ちましたわ」
手術の終つたことを知らせる彼女の微妙な注意。
僕の手術の經過は全く奇蹟的だ。彼女の顏が急に生き生きと、信じられないほど大きい感じで僕の前に現れ、もはやそこを立去らない。それは、クロオズアツプされた一つの顏がスクリインからあらゆるものを消してしまふやうに、槇の存在、僕の思ひ出の全部、僕の未來の全部を、僕の前から消してしまふ。これは眞の經過であるか、それとも一時的な經過に過ぎないのか。しかし、そんなことは僕にはどうでもよい。僕の前にあるのは、唯、彼女の大きく美しい顏ばかりだ。そしてその他には、その顏が僕の中に生じさせる、もはやそれ無しには僕の生きられないやうな、一種の痛々しい快感があるだけである。
僕は再び毎晩のやうにカフエ・シヤノアルに行き出してゐる自分自身を發見する。僕の友人は今はもう誰もここへは來ない。それは反つて僕に、友人たちの間にゐた時には僕に全く缺けてゐた大膽さを起させ、そしてそれが僕の行動を支配した。
そして彼女は――
或夜、僕が註文した酒を待つてゐた間、丁度彼女が隣りの客の去つたあとのテイブルを片づけてゐたことがあつた。その時、僕はぢつと彼女を見ながら、彼女が非常にゆるやかな手つきで、殆ど水の中の動作のやうに、皿やナイフを動かしてゐるのを發見した。その動作のゆるやかさは僕に見つめられ、僕に愛されてゐることの敏感な意識からおのづから生れてくるやうに思はれた。僕はそのゆるやかさを何か超自然的なものに感じ、僕が彼女から愛されてゐることを信じずにはゐられなかつた。
別の夜、一人のウエイトレスが僕に言ふ。
「あなた方のなさること、私達にはわからないわ」
その女が「あなた方」と言ふのは明らかに僕や槇たちのことを意味してゐるらしかつた。しかし僕は故意にそれを僕と彼女とのことだと取つた。僕はその女が金齒を光らせて笑つたのが厭だつた。僕はその女を輕蔑して、何も返事をしないでゐた。
さういふ風にして、微妙な注意の下に、僕が彼女から愛の確證を得つつある間、僕はときどきは發作的な欲望にも襲はれるのであつた。彼女のしなやかな手足は僕に、それらと僕の手足とをネクタイのやうに固く結びつける快感を豫想させた。そして僕は彼女の齒を、それと僕の齒とがぶつかつて立てる微かな音を感ぜずには、見ることが出來なくなつた。
槇が彼女と一しよに公園やシネマに出かけてゐたことが、思ひ出すごとに僕に苦痛を與へずにはおかないその思ひ出そのものが、同時に僕にその空想の可能性を信じさせるのであつた。僕はそれをどういふ風に彼女に要求したらいいか? 僕は槇の方法を思ひ出した。愛の手紙による方法。しかしその不幸な前例は僕を迷信的にした。僕は他の方法を探した。そして僕はその中の一つを選んだ。機會を待つてゐる方法。
最もよい機會。僕のグラスがからつぽになる。僕はウエイトレスを呼ぶ。彼女が僕のところに來ようとする。それと同時に、他のウエイトレスもまた僕のところに來ようとする。二人はすぐそれに氣づいて、微笑しながら、ためらひあふ。その時、彼女が思ひ切つたやうに僕の方に歩き出す。さういふ彼女が僕に思ひがけない勇氣を與へる。
「クラレツト!」僕は彼女に言ふ。「それからね……」
彼女は僕のテイブルから少し足を離しかけて、そのまま彼女の顏を僕に近づける。
「明日の朝ね、公園に來てくれない。一寸君に話したいことがあるんだ」
「さうですの……」
彼女はすこし顏を赤らめながら、それを僕から遠のかせる。そして足をすこし踏み出してゐた以前の姿勢に返ると、そのまま顏を下にむけて行つてしまふ。僕は、よく馴れた小鳥をそれが又すぐ戻つてくるのを信じながら自分の手から飛び立たせる人のやうな氣輕さをもつて待つてゐる。果して、彼女は再びクラレツトを持つて來る。僕は彼女に眼で合圖をする。
「九時頃でいいの」
「ああ」
僕と彼女はすこし狡さうに微笑しあふ。それから彼女は僕のテイブルを離れて行く。
僕はカフエ・シヤノアルを出ると、それから明日の朝までの間をどうしてゐたらいいのか全く分らなかつた。僕にはその間が非常に空虚なやうに思はれた。僕は少しも睡眠を欲しがらずにベツドに入つた。ふと槇の顏が浮んできた。が、すぐ彼女の顏がその上に浮んで、狡さうに笑ひながら、それを隱してしまつた。それから僕はほんの少しの間眠つた。――そして僕がベツドから起き上つたのは、まだ早朝だつた。僕は家中を歩きまはり、誰にでもかまはず大聲で話しかけ、そして殆ど朝飯に手をつけようとしなかつた。僕の母は氣狂のやうに僕を扱つた。
5
漸く彼女が來る。
僕はステツキを落しながらベンチから立上る。僕の心臟は強く鼓動する。僕には彼女の顏が正確に見えない。
僕は再び彼女と共にベンチに腰を下す。僕は彼女の傍にゐることにいくらか慣れる。僕は彼女の顏をはじめて太陽の光によつて見るのであることに氣づく。それは電氣の光でいつも見てばかりゐた顏と少し異ふやうに見える。太陽は彼女の頬に新鮮な生《なま》な肉を與へてゐる。
僕はそれを感動して見つめる。彼女は僕にそんなに見つめられるのを恐れてゐるやうに見える。しかし彼女は注意深くしてゐる。彼女は殆ど身動きをしない。そしてときどき輕い咳をする。僕はたえず何か喋舌つてゐる。僕は沈默を欲しながら、それを恐れてゐる。僕の欲してゐるのは、彼女の手を握りながら、彼女の身體に僕の身體をくつつけてゐることのみが僕等に許すであらう沈默だからだ。
僕は僕自身のことを話す。それから友達のことを話す。そしてときどき彼女のことを尋ねる。しかし僕は彼女の返事を待つてゐない。僕はそれを恐れるかのやうに、又、僕自身のことを話しはじめる。そして僕の話はふと友達のことに觸れる。突然、彼女が僕をさへぎる。
「槇さんたちは私のことを怒つていらつしやるの?」
彼女の言葉がいきなり僕から僕の局部を麻痺させてゐた藥を取り去る。
僕は前に經驗したことのある痛みが僕の中に再び起るのを感じる。僕はやつと、あれから槇には自分も會はないと答へる。そして僕は呼吸《いき》の止まるやうな氣がする。僕はもう一言も物が云へない。その僕の烈しい變化にもかかはらず、彼女は前と同じやうに默つてゐる。さういふ彼女が僕にはひどく冷淡なやうに思はれる。そのうちに彼女は、だんだん不自然になつてくる沈默を僕がどうしようともしないの
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