ヤノアルを出ると、それから明日の朝までの間をどうしてゐたらいいのか全く分らなかつた。僕にはその間が非常に空虚なやうに思はれた。僕は少しも睡眠を欲しがらずにベツドに入つた。ふと槇の顏が浮んできた。が、すぐ彼女の顏がその上に浮んで、狡さうに笑ひながら、それを隱してしまつた。それから僕はほんの少しの間眠つた。――そして僕がベツドから起き上つたのは、まだ早朝だつた。僕は家中を歩きまはり、誰にでもかまはず大聲で話しかけ、そして殆ど朝飯に手をつけようとしなかつた。僕の母は氣狂のやうに僕を扱つた。
5
漸く彼女が來る。
僕はステツキを落しながらベンチから立上る。僕の心臟は強く鼓動する。僕には彼女の顏が正確に見えない。
僕は再び彼女と共にベンチに腰を下す。僕は彼女の傍にゐることにいくらか慣れる。僕は彼女の顏をはじめて太陽の光によつて見るのであることに氣づく。それは電氣の光でいつも見てばかりゐた顏と少し異ふやうに見える。太陽は彼女の頬に新鮮な生《なま》な肉を與へてゐる。
僕はそれを感動して見つめる。彼女は僕にそんなに見つめられるのを恐れてゐるやうに見える。しかし彼女は注意
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