不器用な天使
堀辰雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)娘《メツチエン》に
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つては、
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1
カフエ・シヤノアルは客で一ぱいだ。硝子戸を押して中へ入つても僕は友人たちをすぐ見つけることが出來ない。僕はすこし立止つてゐる。ジヤズが僕の感覺の上に生まの肉を投げつける。その時、僕の眼に笑つてゐる女の顏がうつる。僕はそれを見にくさうに見つめる。するとその女は白い手をあげる。その手の下に、僕はやつと僕の友人たちを發見する。僕はその方に近よつて行く。そしてその女とすれちがふ時、彼女と僕の二つの視線はぶつかり合はずに交錯する。
そこに一つのテイブルの周りを、三人の青年がオオケストラをうるささうに默りながら、取りまいてゐる。彼等は僕を見ても眼でちよつと合圖をするだけである。そのテイブルの上には煙りの中にウイスキイのグラスが冷く光つてゐる。僕はそこに坐りながら彼等の沈默に加はる。
僕は毎晩、彼等と此處で落ち合つてゐた。
僕は二十だつた。僕はいままで殆ど孤獨の中にばかり生きてゐた。が、僕の年齡はもはや僕に一人きりで生きてゐられるためのあらゆる平靜さを與へなかつた。そして今年の春から夏へ過ぎる季節位、僕に堪へがたく思はれたものはなかつた。
その時、この友人たちが彼等と一緒にカフエ・シヤノアルに行くことに僕を誘つた。僕は彼等に氣に入りたいと思つた。そして僕は承諾した。その晩、僕は彼等の一人の槇が彼の「ものにしよう」として夢中になつてゐる一人の娘に會つた。
その娘はオオケストラの間に高らかに笑つてゐた。彼女の美しさは僕に、よく熟していまにも木の枝から落ちさうな果實のそれを思はせた。それは落ちないうちに摘み取られなければならなかつた。
その娘の危機が僕をひきつけた。
槇はひどい空腹者の貪慾さをもつて彼女を欲しがつてゐた。彼のはげしい欲望は僕の中に僕の最初の欲望を眼ざめさせた。僕の不幸はそこに始まるのだ。……
突然、一人が彼の椅子の上に反り身になつて僕の方をふり向く。そして何か口を動かしてゐる。が、音樂が僕にそれを聞きとらせない。僕は彼の方に顏を近よせる。
「槇は今夜、あの娘《メツチエン》に手紙を渡さうとしてゐるのだ」
彼はすこし高い聲でそれを繰り返す。その聲で槇ともう一人の友人も僕等の方をふり向く。眞面目に微笑する。そしてまた、前のやうな沈默に歸つてしまふ。僕はひとり顏色を變へる。僕はそれを煙草の煙りで隱さうとする。しかし、今まで快く感じられてゐた沈默が急に僕には呼吸《いき》苦しくなり出す。ジヤズが僕の咽頭《のど》をしめる。僕はグラスをひつたくる。僕はそれを飮まうとする。が、そのグラスの底に見える僕の狂熱した兩眼が僕を怖れさせる。僕はもうそれ以上そこに居ることが出來ない。
僕はヴエランダに逃れ出る。そこの薄くらがりは僕の狂熱した眼《まなこ》を冷やす。そして僕は誰からも見られずに、向うの方に煽風機に吹かれてゐる娘をぢつと見てゐることが出來る。風のために顏をしかめてゐるのが彼女に思ひがけない神々しさを與へてゐる。ふと、彼女の顏の線が動搖する。彼女がこちらを向いて笑ひだす。一瞬間、僕はヴエランダから彼女をぢつと見てゐる僕を認めて彼女が笑つたのだと信じる。が、僕はすぐ自分の過失に氣づく。うす暗いヴエランダに立つてゐる僕の姿は彼女の方からは見える訣がない。彼女は誰かに來いと合圖をされたのだらうか。僕はそれが槇ではないかと疑ふ。彼女は思ひ切つたやうにこちらを向いて歩き出す。
僕は僕の手を果實のやうに重く感じる。僕はそれをヴエランダの手すりの上に置く。手すりは僕の手を埃だらけにする。
2
その夜、疾走してゐる自轉車が倒れるやうに、僕の心は急に倒れた。僕は彼女から僕のあらゆる心の速度を得てゐたのだ。それをいま、僕は一度に失つてしまつた。僕にはもう自分の力だけでは再び起ち上ることが出來ないやうに思はれるのだ。
「電話ですよ」母がさう云つて僕の部屋に入つてくる。僕は返事をしない。母は僕に叱言を云ふ。僕はやつと母の顏を見上げる。そして「このままそつとして置いて下さい」僕は母にさういふ表情をする。母は氣づかはしげに僕を見て部屋から出て行く。
夜になつても、僕はもうカフエ・シヤノアルに行かうとしない。僕はもう彼女のところに、友人たちのところに行かうとしない。僕は自分の部屋の中にぢつと動かないでゐるのだ。そして僕は何もしないためにあらゆる努力をする。僕は机の上に肱をついて、兩手で僕の頭を支
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